俳句の表現の形

現代俳句誌二月号感銘の一句の中に、一茶の《雀の子そこのけそこのけお馬が通る》の句を採り上げておられた。こうした句が登場するのは珍しく現代俳句では今までには無かった事で、現代俳句のレベルアップの一現象かとも思ったし、又感銘の一句欄の理由書きに[早い者勝ちだ]ともあり私はこの事で二つの事を書こうと言う気持ちに至りました。
その一つは句の内容の事で《雀の子そこのけそこのけ》の句は氏が言っておられるさまに簡単で誰にでもすぐ覚えられ、又軽く価値の低い句だと思われ勝ちですが、こうした書き方は非常に難しく、書くのに特別な才能が要りますが今回これに似た反響が私の作品にもありました。
私は[磯野香澄俳句の世界]のシリーズの初めにノーベル賞応募の弁として、シリーズ作成に踏み切ったいきさつを書いていますが、その中で(かつてこの手法でいこうとした時推稿するのに根限り力を注ぎその句が読み手に渡った時、こんな幼稚な事を書いてと嘲られるのを承知で発表したがそれ迄に色々逡巡した)と書いています。それが現実として現れました。私のこれらの句は現象を書いて所謂(物で事)を書いているので、字図らを読んでこの句は何も書いてないという[磯野香澄俳句の世界五の三珊瑚彩の四季]に対する反響なのですが、実は何も書いてないのでは無く書きたい事を全て削り取ってしまっているのです。このシリーズの著書はどなたにでも読んで頂くのが目的ですから分からないと思われた方の為にと添え書きとして句の読み方、言葉の意味、切れ字や句の外郭及び賜る時の心情を書いていて、又この添え書きはなるべく読まれない事を望みますとも書いているのですが、「文章に力が入れすぎで俳句は切り込みが弱い」ともあったので俳句の真髄の事をもっと知っていただく必要が有ると思いました。 
これは私のつぶやきですが。
死ぬほどしんどい思いをして私の思いを削り取り、未だ心が抜けていない事に気付くと『読み手の楽しみを取ってどうする』と言いながら私作者の言いたい事を全て削り取ってしまいます。何故そこ迄するかといいますと、それは作者の気持ちが感じられると読み手に渡ったとき読み手ご自身のイメージされる時邪魔になるからです。又はイメージが沸かないと言う事になります。俳句は初めの一歩から有情迄の表現の方法があって色々な手法がありますが、有情に到達するまでは俳句道の道中の作品と言う事でそれらの作品は全て作者の思いや感覚で綴られていますので、佳い作品は作者が褒められます。ところが有情の作品は読み手に渡ったときは句の中には作者はどこにも居ませんのでその句は読み手の物になっています。芭蕉が到達された〈純文学俳句〉は宗教と重なっている処があり奉仕の精神がベースになっています。こうした事は芭蕉以来、理論的に解明された事がなかったので模索が続いて来ました。それを私は五十年かけて理論的に到達し解明するに至りました。究極の俳句は何が書いてあるかではなく読み手のものとしてどう感じたか思ったかで作品と読み手が一体化して、その情感をイメージの中で現実映像として体感するようになっています。それが芭蕉が到達され完成された真の俳句の境地です。
その二つ目は手法に付いてです。先にも書いています様に雀の句に「早いもの勝ちだ」と書かれた方がそう思われるのも無理の無い事で、ご自分がこの句にのりうつっていてこの句がいかに高度な作品であるかと言う事が分らないのは当然です。俳句は吟味して読むものではありませんから字図らの通りに読めばよいのです。そこで何を感じられるかは読み手の気持ちや感じ方次第です。又理由書きのスペースが少ないので思っておられる事が伝わらないのかも知れませんが、感銘の一句と言う欄には相反する文と思えたので、そこでこうした作品の解明をする必要があると思いました。
まずこの句は一茶の動物に対する優しさが書かれていて読み手はその気持ちが自分のものになってしまっています。手法の事を少し詳しくお話しますと、〈俳句は物で事を書く〉という事はどなたでもご存知ですが、俳句は作者が遭遇した事で心に響いた事をあった通りに具体的に書くのです。しかし十七文字の中での表現ですので一番適切な言葉を探してその場の状況が瞬間見えるように書かなければなりません。又言葉の幅と言うか数が限られていますからきちっと書けるまでが大変です。(私に続いてこの手法で書く人が多くなって行くに従って楽に書けるようになると想像しています)そして作者の情感を抜き去り俳句が独立して読み手の処へ瞬時にいけるように書きます。こうした事を一茶は心を物で書き、芭蕉は感覚を物で書いておられます。又別の言い方をしますと、芭蕉は相手の側から書き、一茶は自分の側から書いておられます。普通俳句を書く場合にはこのどちらかの手法を使わせて戴く事になります。
この2つの手法で全ての事が書ける事になっていますがまだオールマイティーでは無いように思えて、そこで私は俳句を研究する中で相手側からと自分から書く以外に無いのかと考えたとき、かつて大それた事を言って笑われたことを思い出しました。それは「私は芭蕉と一茶の間をすり抜ける」と言ったのでした。ひょっとしたらこれが今日の予感だったのではと芭蕉の相手側からと一茶の自分の側からの間に手法の形式が無いものかと模索しました。その時、原子の中に陽子と電子があってその間に中性子があるのと同じように俳句も相手の側からと自分の側からとの中間が有るのではと思えるようになりました。そこで自分の側からと相手の側からとの両方から書ける分野があればと模索しました。そこで見つけたのが芭蕉も一茶も書いておられない遺伝子を渡すのに重要な男女の行動や心を書くと言う生物にとって大事な分野が書かれていないのは、俳句は自然、地球、宇宙の全てを書く文学ですから愛情を物で書く分野があるべきだとその手法を編み出しました。その手法とは結果的に読み手が作者に成ってイメージ出来ることは相手の側からや、自分の側から書く芭蕉や一茶の形式と同じように読める形式になりました。次にその私の到達した愛の心を物(具象)で書いた作品を掲載して見ます。

肩抱いて椿に雪の裏参道

壬生狂言無言で寄り添う帰り道

夜桜や交わす盃緋の床几

花苑の小径や一と夜と歌合わせ

藤棚や大宮人とみつめ合い

相合傘片身づつ濡れ紫陽花苑

天の川窓の手枕灯り消し

浜茶屋の窓に寄り添い遠花火

道行きと山茶花の散る裏街道

忘年会箸の袋に誘い文
(これと同じ手法で親子、師弟、人類、動物愛の行動等愛の心を物(具象)で書くことが出来ます)

平成十七年三月

磯野香澄

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