創作の世界で「一人歩きする」と言う言葉がよく使われるが、これは子供が親から離れて一人で歩けるようになった事を言う言葉で、それを作品が作者から離れていく場合に使われている。この場合、作品の評価が高くてその作品の題名と評価がマスコミやクチコミで広がって行く事で、又絵画や陶磁器等の作品が売買されて、人手に渡り次々と人から人へと渡って行く事などに使われる。ここで面白いのが俳句の場合である。俳句は題名や評価だけが一人歩きするのではなく作品そのものが一人で活字や口唱で広がって行き、そしていつの間にか句そのものが一人歩きして行ってしまう。例えば芭蕉の〈古池や蛙飛び込む水の音〉と言う句を口にしたとすると、その古池の情景が見えて感じられその情感を味わっている。そして人から人へと伝わって行く。他の句でもそれぞれの句の内容が感じられ、人の心を潤わせて次々と伝わって行く。本物の俳句は良い感じが人の心に瞬間のりうつり気持ちを潤わせて瞬間消える。この現象は受け入れる脳の反応のメカニズムが起こす感応現象であり、日本語の素晴らしい機能性である。又その日本語の機能に乗って一人歩きして行く俳句は人に人格があるように、俳句にも俳格とでも言うべきものがあって、自己主張しながら何処までも一人歩きして行く。 こうした俳句を発生させる装置とも言うべき俳句の形を発明し、内容は自然に起こっている現象で感動した事を、五七五と十七文字で完結する詩形を確立された芭蕉の業績は凄いと思う。こうした研究の結果生み出された句について正岡子規は「芭蕉の良い句は五、六句しか無い」と言っておられる。私は「芭蕉の良い句は五、六句もある」と言う。多分この五、六句とは同じ句を指していると思う。私が良いという芭蕉の句は |
古池や蛙飛び込む水の音 荒海や佐渡に横たふ天の川 夏草や兵共が夢の跡 あかあかと日はつれなくも秋の風 五月雨を集めて早し最上川 月清し遊行の持てる砂の上 名月や池をめぐりて夜もすがら |
多分子規もこの辺りを言っておられると思うけれど、何故これらの句が良いと言うのに子規は「しかない」と言い私は「もある」と言うかと言う事だが、芭蕉は連歌の最初の挨拶句を独立させて、頭の中で化学反応させるような凄い手法を発明し作品として完成されたのだから五、六句も残されたと言う事はこの五、六句は凄い仕事だと思うからで、子規が「五、六句しか無い」と言われた事は最初に芭蕉が発明された業績の価値が分かっていないから言える事で、実際子規の作品で芭蕉の域へ到達している句は一句もない。(短命だった子規のことだから仕方ないが)そうした事から言えば一茶は芭蕉を尊敬しそして芭蕉の究極の作法を理解し自分の物にしておられるし、又蕪村は作品のレベルではまだ到達してはおられないけれど、やはり芭蕉を尊敬してその域に近づこうとしておられる。 この究極の俳句の手法を借りて作句する場合高度な知的作業で、あらゆる分野の理解力が要求され妥協を許されない。こうした究極の俳句は地上最高の文学形態だといえる。科学でも芸術でも芸能でも使う能力範囲は、先天的な能力の一部に限られていると思うが、俳句は人間の能力のあらゆる面を駆使しなければならない。又俳句を書く場合、先天的な力に頼る事は出来ない。同じ文学で一般的に高度とされている小説も、言葉と言う後天的な人間だけが獲得した文化を道具としての作業で、高度な分野だが文そのものに特殊な働きを発生させる事は、出来ないし又文字数に制限が無いのでする必要は無い。俳句は十七文字で物語を簡潔させる力を持つもので、又俳句は創作する物ではなく現実この世の出来事を常に現在進行形で綴る句であり、一人歩きする怪物のようなものである。こうしたのりうつる力又はその感入させる力は、宗教や科学で感応させる働きと同じである。科学で感応させるのは物質で、宗教で感応させるのは心で、俳句で感応させるのは頭脳で起きる。こうした俳句が一人歩きする現象を発生させられるのは、日本語の特殊性と言おうか高度さにあると言える。地球上色々な国の言葉があり、それぞれに特長があってそれなりの良い働きがあるのだろうが、知的感応を起こす事の出来る民族語は他に無いのではと思える。こうした素晴らしい言葉を持つ日本人は俳句と言う高度な詩句、生き物を渡らせて世界の平和を推し進める使命を担っていると思う。 私がこの手法の素晴らしさを知らしめて戴けたのは、アブストラクトとか抽象的な表現で絵画や書道、華道又芸術の全てが隆盛を極め、それも世界的な現象で、俳句も同じように比喩の高度な書き方が現代俳句の頂点として君臨していたが、それらの表現が書きつくされてマンネリを自他とも認めなければ仕方のない時代に入っていた頃で、芭蕉が連歌の最初の句である発句を独立させ俳の句とし発明された時期も連歌の終焉の時期に来ていたのだろうと思える。この事は偶然だろうが芭蕉が創造されたのを私が理論的に解明させて戴けたのは時代の流れだと思える。こうして色々考えてみるとこの素晴らしい俳句の形態は神の賜物だと思える。 私は世界中の俳句愛好者がお互いに遭遇し感動した情景を、作品で共有出来たらどんなに素晴らしいだろうと思う。この手法で一人歩きする生き物である俳句を多くの人に書いて貰い世界中に繁殖させて歩き回らせたい。 平成十七年四月 |
磯野香澄 |