迷子から二番目の真実[10]

   〜 教育 〜   [94年 3月29日]



 パソコンというのは、ふと思い出してみると、パーソナル・コンピュータの略なのであった。いやなに、たまにこういうことを思い出してみると新鮮に感じるもので、ハマコーとはさては浜田幸一であったかと再発見するような感動がある(かなあ……)。
 パーソナル・コンピュータなんて言葉ができたのは、太古の時代、コンピュータというものは“大勢が公の仕事に使うもの”だったからである。いまだにそう考えているとしか思えない時代錯誤の使いかたをしている場所もたくさんあるが、少なくとも NIFTY-Serve 利用者のみなさんは、そんな意識はとっくに卒業しておられるか、最初から持っておられないにちがいない。[*1]
 個人の意識はどんどん進んでゆくというのに、人が寄り集まって企業だの団体だのといった別種の生きものになると、途端に環境の変化に鈍感になる。その鈍感な生きものがようやく気がついて、さも新しげな概念のように鼓吹しはじめることは、個人レベルでは、あえて言上げするまでもなかったあたりまえの認識だったりすることが多い。
 たとえば、“エンドユーザ・コンピューティング”などというたいそうな言葉がある。これだって、“コンピューティング”というのは、ソフトウェア会社とか企業の情報システム部とかいった、実際に情報を使う人とは別の特殊な人々が行うことであるという認識が常識とされていたからこそできた言葉である。むかしは、たしかにそういう人々にしかコンピュータは扱えなかったからだ。その常識が、さまざまな技術の進歩によっていつのまにか常識でなくなってしまっただけの話。浄水場の職員や水道配管工に水の使いみちまであれこれ制限され、ほかに水を手に入れる方法がなかったために利用者は我慢していたなんてことが、つい最近まで企業ではまかり通っていたのだ(まだ、まかり通っているぞとおっしゃる読者の方、ご同情申し上げます)。「もう我慢ならん。少なくとも飲み水や料理には、コンビニで水を買ってきて自分の裁量で使うぞ」というのが、エンドユーザ・コンピューティングなるものだ。水道から出てくる大味のやつよりも、はるかにおいしい水が手軽に入手できる環境が整ったのである。水道水は、便所や風呂や洗濯に使えばよいのだ。
 私がソフト売り屋なものだからコンピュータの話になってしまったけれど、最近こうした“エンドユーザ・コンピューティング”的な現象が、社会のあちこちで一気に噴出しはじめているように思われてならない。ディスカウントショップの勃興、輸入住宅ブーム、製造物責任訴訟判決[*2]……政治、経済、文化のあらゆる面で、思い当たる現象が発見できないだろうか? あたかも、「金を払って受益する者は、もっともっとわがままになってもよかったのだ」というあたりまえのことに、みんながいっせいに気づいてしまったかのようだ。これは、裏返しにいえば、「ほんとはもっと安くも便利にもできるんだけど、業界の利益のために、お客が気づくまではお互いに黙っていましょうね。ねっ、ねっ」といった、日本的な暗黙の談合体制のようなものが、ほとんどあらゆるギョーカイに存在していたということである。ゼネコンばかり責めるのは、天に唾するようなもんである(だからといって、ゼネコン汚職が許されるわけじゃないが)。いま日本で急速に進行しているのは、つまるところ、“受益者の市民革命”なのだ。標語を作ってもよい。「提供者よ、奢るなかれ! 客は、あんたじゃなくあたしだ!」日本の消費者の“幼年期の終わり”である。

 学者でもなんでもない私が、乏しい経験と観察にもとづいて言ってるだけのことだから話半分に聞いていただきたいのだが、社会の動きに関するこうした認識が多少なりとも正しいとすれば、遅かれ早かれ大革命の波をかぶるであろうと予測される業界がある。教育、とくに、公教育だ。
 公教育ほど受益者の都合を思い切りよく無視したサービスも珍しいのではあるまいか……。待てよ。公教育の“受益者”とは、いったい誰なのだろう? 教育される子供自身か? それとも親か? 将来優秀な人材を得る社会全体か?
 教育を受けるのは、義務であると同時に権利である。そりゃあ、子供を学校なんかにやるよりさっさと野良仕事でもしてもらったほうがありがたいような時代なら、義務の面が表に出ていたかもしれないが、いまどき「ああ、うちの子は社会に役立つための義務を果たしにいくわ」などと考えて、毎朝子供を送り出す親はまずいないだろう。「森羅万象を統べる真理の探究にゆくのだわ」なんて思ってる親は、あんたこそ真理の探究をしたほうがよい。「厳しい社会で生き延びてゆくための“情報”を入手しにいくのだわ」あたりが妥当なところだろう。つまり、教育を受ける権利意識のほうが強い。子供自身が受益者だという意識なのである。
 とすると、ほかの業界で起こっていることが、教育界にも起こると考えるのが自然ではないか。いまにきっと「提供者側の都合を押しつけるな」という声の砲撃が、バスチーユの壁に炸裂するにちがいない。しかも、いまはその“提供者側の都合”すら揺らいでいるのだからなおのことである。
 教育というのは、任意の価値観を叩き込むことにほかならない。その価値観は、神の価値観だろうが悪魔の価値観だろうが金の価値観だろうが、提供者側のきわめて恣意的な都合で決まるものである。こんなことは歴史が教えてくれることだ。どんな悪魔的な価値観であってもうまく叩き込めさえすれば、道徳的観点は抜きにして、それは教育として大成功しているのだ。
 ところが、今日の日本は、その暫定的価値観すら決めることができない状況になってしまっている。なにしろ、このあいだまでの価値観を信じて一生を捧げてきたお父さんたちは、首を切られはじめているのだから。
 提供者側はどんな価値観を次代に伝えてゆくか途方に暮れており、ニーズが多様化した受給者側は、提供者の都合の押しつけに我慢できなくなっている……これだけ条件が揃えば、なにかが起こらないほうがおかしい。ほかの業界からの類推で考えれば、おそらくこれからの公教育の受給者は、豊富なデータと選択肢、データを分析・加工して情報を生み出す基本的技術のみを要求してゆくようになるだろう。加工済みの情報をうやうやしく下賜される時代は終わったのだ。“エンドユーザ・エヂュケーション”とでも呼ぶべき現象が立ち上がってくるはずである。
 私はけっして、現在の公教育を非難しているのではない。ただ、変わるべくして変わらざるを得なくなるだろうと指摘しているだけだ。時代がどう変わろうと、教育は人間社会の必要悪として欠くべからざるものだという点は変わらない。
 きっとこれを読んでくださった教職の方の中には、外野からエラそうなことを言いやがってとお怒りの向きもあるかもしれない。「どんな価値観を次代に伝えてゆくか途方に暮れて」いるなどという失礼な言葉遣いもした。でも、これはこと教職にかぎらず、私を含めたほとんどの大人に当てはまることである。
 私は現在独身[*3]だが、将来子供を作るようなことがあるとすれば、途方に暮れてばかりいるわけにもいかなくなるだろう。親は全員教師なのだから、逃げはきかない。ときどき、自分の子にひとつだけなにかを伝えられるとすれば、なにを伝えてやれるだろうなどと、妙な皮算用(?)をしてみることがある。「とりあえずなんらかの価値観を身につけよ。しかるのち、それを更新・拡張・否定すべく、死ぬまで情報を収集し続けよ」というのが、生き延びてゆくために私が伝えたい“目下の”価値観である。結局これは、科学の価値観ということになるのかもしれないし、立派な“偏見”の一種だ。これを超える価値観をわが子が作り上げてくれるならば、それはそれで喜ばしいことである。



[*1]その後、空前のパソコンブームがやってきて、誰もがこういう認識を持つに到った(ようである)。
[*2]その後、製造物責任法、いわゆるPL法が施行された。
[*3]くどいようだが、いまも独身である。

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