迷子から二番目の真実[11]
〜 スーパースター 〜 [94年 4月11日]
マンガ家とピアニストの前に出ると、むちゃくちゃにアガってしまう。
それらを職業にしている人でなくとも、そこそこの腕前の人だということがわかると、途端に後光が射して見えてくるのである。私をおとなしくさせたかったら、目の前でリボンの騎士かなにかをすらすら描いて見せるか、猫ふんじゃったを弾くだけでよい。
「そんなにアガってるようには見えないわよ」とお知合いのマンガ家先生はおっしゃるかもしれないが、それは私の自己コントロールの修練の賜物なのだ。心の中では地にひれ伏して、モスラやモスラと崇めている。ほんとですよ。
なぜこんなにアガるのか、つらつら考えてみると、子供のころにマンガ家やピアニストになりたかったからだろうという単純な理由に思い当たるのだった。
まず、ピアニストである。
ピアノなんか置いたらどこに寝るんだというアパートで育ったくせに、なにをまちがってそんなものに憧れたのかさっぱりわからない。きっとテレビかなんかで見て、かっこいいなあと思ったのだろう。ウルトラマンになりたいというのと、さほど変わらない。
いまはどうだか知らないが、私の子供のころは、「ピアノを習っている」といえば“え〜トコのお嬢さん”のシンボルであった。“えートコ”ではない。あくまで“え〜トコ”なのである。門から玄関までのあいだに、うちの居間が二十は入りそうなお屋敷のどこからともなく、ポロンポロンと妙なる調べ……おお、あれは話に聞く“くらしっく”とやらいう南蛮渡来の高級音楽に相違ない。きっと、松本零士の描く女性(なんてのは、あとになって知るのだが)のような、睫毛が5センチくらいの髪の長い(これは、絶対長くなくてはならない!)半透明の少女が弾いているにちがいない。彼女がカゲロウを思わせるたおやかな物腰で浮かぶようにグランドピアノの前に腰かけるや、空気の底から湧き出づるかのごとき調べが唐突に香り立ち、華麗に鍵盤を舞い遊ぶ彼女の細く白い指は、音のせせらぎをただなぞるばかりとでもいうのだろうか、ときに謙虚に、ときに大胆に、弾く者の豊かな感性をほとばしらせる。傍らでは執事のパーカー(甚吾兵衛であってはならない)が、ひとつの完成された調度品のような威厳を湛えつつ佇み、穏やかな笑みを浮かべていつまでもいつまでも聴いている……ああ、ええなあ、きれいやなあ、などと勝手な想像を膨らませるのはそのときだけで、家へ帰れば白黒テレビの歌謡番組見ながら、算盤片手にトニー谷に変身して踊り狂うのだ。気色のわるいガキである。
まあ、ピアニストのほうは、ピアノなんか買えるわけも習えるわけもあるまいから、純然たる憧れであったのだが、マンガ家のほうは本気でなろうと思っていたころもあったのだから可愛らしい。
最初のころは、ノートに鉛筆描きでコマ割りをして、意味不明のキャラクターが吉本新喜劇風のドラマを繰り広げるというものであった。枠線が鉛筆描きなものだから、絵を失敗して消しゴムで消すと、枠線も一緒に消えてしまう。それをまた定規で引き直すということを繰り返しているうちに画面がどす黒くぐちゃぐちゃになってくる。枠線だけボールペンで描けばいいのにと思うが、その場の思いつきで次に描くコマのコマ割りをするので、あらかじめボールペンで引くわけにはいかないのだ。世俗の用語ではこれを“行き当たりばったり”と称することもあるようだが、藝術家はひらめきを大切にするのである。
こんな調子で勉強もろくにせずに、ノートを何冊も意味不明のマンガで塗り潰す小学校時代を送っていたが、親はなにも言わなかった。テストでそこそこ人並みの点数さえとっておれば、なにをやっても許されるというくだらぬ世渡りの知恵をこのころ身に付けたように思う。いまになって後悔している。もっと勉強しておけばよかったと後悔しているのではない。その場の成績を適当にでっちあげるために使った無駄なハウツー勉強の時間を、いっそ思い切って遊び倒しておけばよかったと思っているのである。ケツをまくって、堂々と悪い点を取るという確信犯的思想に欠けておったのだ。われながらスケールの小さい子供だと思う。どのみち義務教育で大したことを習うわけでなし、小・中学校で習う程度のことは、子供が“本気で遊べば”おのずと身につくレベルのことである。いや、この年齢の好奇心旺盛な子供が本当に楽しむためには、学校で習うよりもはるかに高度な知識や技能が必要なのだ。学校の先生には悪いが、大学に入るまで、学校というのは友だちに会いにいくところだと思っていた。きっと、いまでもそう思っている子供がほとんどじゃないかという気がする。
ちょっと話がそれた。なんだかんだで何冊もノートを埋めているうち、ある日、ふと初期のころの作品(?)を読み返してみたところ、なんじゃこりゃ、ぜんぜん上達しとらんじゃないか! それも道理で、思えば私は絵の研究やら練習をした覚えがない。要するに、絵を描くのが好きなんじゃなくて、お話やギャグを考えるのが面白かったにすぎないということに気づいたのであった。そう思って客観的に自分の絵を見ると、才能の片鱗も感じられない。こらあかん、というわけで、マンガを描くのはすっぱりやめてしまった。
未知の外国語を戯れに勉強しはじめるとよくわかることだが、最初のころはものすごいスピードで上達するから面白くてしかたがない。あたりまえの話で、最初はすべてが新しい知識だから、一週間前と比べると二倍の単語を知っているし、半年前は挨拶もできなかったのに、いまはもう手紙が書けるなんてことになるわけだ。結局、どんな分野であろうと、金と時間とやる気さえあれば、人間誰でもある程度のレベルには必ず達する。だから、経験や知識の蓄積をもって鳴るという人には、努力に対する尊敬の念こそ抱けど、“憧れ”という感情は湧いてこないのである。ただ自分とはちがう時間の使いかたをしただけの、しょせんは同じ人間にすぎないと思ってしまうのだ。
ところが、これまたどんな分野にも、最初から“次元のちがう”人というのがいる。そりゃあ努力もしたのにはちがいなかろうが、およそ常人の延長線上にあるとは考えられないことを思いついたりやらかしたりする人である。
こういう人の才能を素直に認めて、「あの人はふつうの人とはちがうのよ」とみんなで大事にすればいいのにと思うのだが、似非民主教育の弊害か、いまの日本では、スーパースターはよってたかって常人の次元に引きずり降ろされズタズタにされてしまう。まるで、常人が努力で到達できない才能を持った人間は、存在してはならないかのようだ。マニュアルどおりにやれば、誰でも「一日20分の練習で天才検定に合格よ!」という調子じゃないと、誰かが困るのだろうな。
ちなみに私は、フィギュアスケートのハーディングが大嫌いである。努力したのはあんたの勝手でしょと言ってやりたい。努力は必ず報われるというのは、子供たちには信じさせてやらねばならないが、いい大人がいつまでもそんなことを信じているようでは困る。ましてや、「こんなに努力してるのに」などとダダをこねるに至っては笑止千万。大人の世界は結果がすべてだ。
たしかに、いわれのない差別をしてはならないが、基本的に人間はみんなちがうというのは、まぎれもない事実だ。そこを頬かむりしておいて、「国際人を育てましょう」もないものだと思うのだがどうか。そりゃあ、してはならない差別とするべき区別のちがいを教えるのよりも、みんなみんなおんなじなのよとお題目を唱えているほうがはるかに楽ですけどね。
自分が天才ではないことが明白なだけに、少なくとも私は、他人の才能の素晴らしさがわかる目を養いたいと思っている。努力の人はもう見飽きた。私は、無条件に憧れることができる、スーパースターに出現してほしいのだ。