迷子から二番目の真実[9]

   〜 エッセイ 〜   [94年 3月29日]



 音楽家が曲を作らずにやたら音楽論をやるようになったら、ネタに困っていると見てまちがいない。作家が評論ばかりやるようになってもそうである。だからどうなのだと言われても、べつにどうもしないのである。ただ、な〜んとなく言ってみたかっただけなのだ。

 さて、話はがらりと変わるが、今回のテーマはエッセイである。
 毎週1〜2本エッセイ(になっていればいいが……)を書くというのは、やってみるとなかなか難しい。だいたい私は、日記だって続いたためしがないのだ。何年かごとに思い出したように日記をつけてみる時期がやってくるけれど、まあ、ひと月と続かない。そのくせ、たまたま日記の文章がわれながらうまく書けたりすると、今度は誰かに読んでもらいたくてたまらなくなる。ムラがあるのである。
 これが素人というものの限界なのだ。「新人というのは自分で一番書きやすい作品をイソイソと持ってくる…………だが こっちからこういうものを書けというテーマを与えると たいてい書けずに閉口する そこがその新人の実力なんだ」(『ルードウィヒ・B』手塚治虫・潮出版社)弟子入り志願の若きベートーベンに天才モーツァルトが言う台詞である。これは手塚治虫が別の本にも書いている彼自身の意見で、弟子入り志願者をゴマンと追い返したであろう天才の言葉だから、圧倒的な説得力がある。
 この会議室でこういうことをはじめて、手塚治虫の意見はまことに正しいと改めて痛感している。ここではテーマすら自由なので、テーマの選びかたそのものにも素人の限界が露呈されてしまうのである。自由ほどこわいものはない。
 しかし、素人には素人なりの対処方法というものがある。「エッセイの書きかた」をルーチン化してしまえばよいのだ。そうすれば大量生産ができるにちがいない。よーし。善は急げだ。

 まず、冒頭で度肝を抜くという手がある。格言やことわざなどをしかめつらしく掲げるのが、もっとも安易で真似しやすい。“『鏖華記』にいわく、「天地之鬮醺、霰霽即釐釁」”などという、なるべく読めないやつがよい。もちろん、この漢詩(?)はむちゃくちゃなので、図書館で調べたりしないでくださいよ。もっとも最近では、中国風の格言や欧米のことわざなどはあまりエキゾチズムを感じさせない。アメリカ、イギリスなんてのは、少なくとも意識の上では庭みたいなものだ。聖書、マザーグース、シェイクスピア、ちょっと凝って『ラ・ロシュフコー箴言集』なんてのは、もはや黴が生えているからお薦めできない。できれば、“アゼルバイジャンの祭り唄にいわく……”とか“エクアドルの子守唄に……”とか、まだ多少はエキゾチズムを感じさせるものを調べて使うのがよい。面倒であれば、いっそ“ピレネー山脈はヒラルテニマ谷の巫女に代々伝わる戒律に……”などという、まったく架空のものだってかまわない。なあに、実在しないことを調べるのは、実在することを調べるよりもはるかに難しいのだ。
 冒頭で度肝を抜いたら、次のパラグラフでは、だしぬけに時事ネタの話題を振る。これは冒頭の格言と関係がある必要はまったくない。関係なんてものは、あとからいくらでもつけられるのだ。そうですな、いまなら外米の話なんてものいいし、石川県知事選挙なんてのもいい。欲をいえば、人口に膾炙した名著などをさりげなく引用するのもお薦めである。
 さて、次のパラグラフが難しい。できるだけ、わかったようなわからないようなことを言うのだ。わからせてもいけないし、さっぱりわからないようでもいけない。ここでは冒頭の格言や、さっき振った時事ネタに、ほんのちょっぴり、そこはかとなく関係がありそうな言葉をちりばめて適当にむちゃくちゃを言うのがよろしい。ここでむちゃくちゃを言えば言うほど、なにやら奥の深い思想に立脚して、ありがたいことを言っているように聞こえるものなのである。
 思い切り盛り上げたところで、いよいよ最後のパラグラフである。ここでは、冒頭と同じ内容(内容がなければ、ここで作ればよろしい)を別の表現で繰り返せばよい。終わりかたもちゃんと決まっている。“……とでもいうのだろうか”あるいは、“いまさら……でもあるまい”または、“……にしくはない”あたりが三巨頭である。季節感を出したければ、“織姫も待ちぼうけはかなうまい”とか、“サンタも痩せ細る”という具合に、適当な人物・事物を強引に出せばよい。
 以上のルールに則って、エッセイをほとんど自動的に書いてみるとこうなる。エッセイ内エッセイだ。


    ベドウィンのシャーマンの言い伝えに、「大きな卵を生む鶏は、
   三本のけづめを笑う」というのがある。
    外米騒ぎに揺れる巷だが、歴史の教訓に学ばないあたり、タイ
   フーン・メンタリティなどとはよく言ったものである。これでは、
   いつまで経っても東京には空がない。なんとなれば、いっこうに
   紙はなくならず、トイレットペーパーの置き場に困り果てるのは
   面はゆいとしても、上野動物園の山羊にしてみればまったく割に
   合わぬ話だ。
    なるほど、自分のけづめは自分ではよく見えない。なにしろ人
   間は考える葦であるらしいから、米俵の上に腰をおろして叱られ
   た黄門様も欣喜雀躍なさることだろう。それにしても、意外と支
   持率の落ちない連立政権、平壌のくしゃみに顔を背けた途端に西
   から大きな卵ではたまったものではない。マフィアだって左手の
   パスタの食べすぎは身体に悪かろう。
    いやはや、卵の大きさで笑う資格が決められたのでは、桜の下
   は百鬼夜行、安吾政権も不連続を決め込むしかあるまい。そろそ
   ろ、俵の下にも白いけづめが生えてくるとでもいうのだろうか。



 いかがであろう。なにを言っているのかさっぱりわからないのだが(書いてる私だってわからない)、なんとなく斜に構えたふかーい意味がありそうな文章に見えてきはしないだろうか。この調子で書けば、いくらでもエッセイが大量生産できる。もしあなたが、まかりまちがって新聞に毎日エッセイを連載するなどという殺人的な仕事を受けてしまったとしたら、ぜひ思い出して参考にしていただきたい。
 今後、もし大新聞紙上で上のようなエッセイを見かけたら、筆者はきっと NIFTY-Serve の会員[*1]である。いまさら知らぬ存ぜぬもあるまいが、鼻から牛乳だとでもいうのだろうか。



[*1]ホームページに公開してしまったので、万人の知るところになってしまった。これを読んだ方は、人に広めたりせず、こっそり参考にしていただきたい。

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