迷子から二番目の真実[12]

   〜 冷蔵庫 〜   [94年 5月 2日]



 女装というのを一度はやってみたい。が、くせになっても困るので、あくまで想像の世界にとどめている。ちょっと試すつもりが、いつのまにかそれなしでは生きられない身体になってしまう……などといったことは、パソコン通信を最後にしたい[*1]ものである。
 以前、深夜に某フォーラムでチャットをしていたら、「女装趣味が昂じて、ビデオに出演したばかりか、テレビにまで出た」という人が入ってきてびっくりした。こういう人々とたとえ文字ででもお話ができるのだから、パソコン通信も捨てたものではない。世の中には、ほんとうにいろんな人がいるのだ。それが実感できれば、課金など安いものである(高いですけどね)。
 まあ、こういう人は、きっと男性としても美しい顔立ちの人なのであろう。仮に私がやってみたところで、ホラービデオ以外に出演させてくれるとは思えない。人様の鑑賞に耐えるどころか、おそらく自分でも気色わるいだろうことが十二分に想像できる。
 私に関するかぎり、女装をしてみたい気持ちというのは、セーラー服など着てみたおのが姿を見て劣情を催すのを期待しているのではなく、ちょっと変わった民族料理なんぞを前にして、ひと口くらいは食べてみたいというのに似た純然たる好奇心である。どう内省してみても、美しくなりたいなどとはみじんも思っていないことはたしかだ。そういう自己実現の方法は、人生の最初から私の選択肢には入っていないのである。
 しかし世間は広い。いわゆる“ミスター・レディー”などと呼ばれている人々の中には、こちらが本当に異性を意識してしまうほどに美しい人がいたりする(もっとも「この程度なら私だって……」と思わせるような人も多いのではあるが……)。「この人は生物学的には男性なのだ」といくら頭で意識してみても、私の男性としての自我が、深いところで反応してしまうのである。なんというか、“自分の身体や心が騙されている”感じなのだ。
 私はけっこうこの感じが好きである。子供のころ、膝蓋腱反射のテストを覚えたときに、面白くて何度もやってみたものだ。自分の意志とは関係なく身体が反応するのが、妙に面白い。ちょっと前に流行ったRDS(ランダム・ドット・ステレオグラム)なんかも大好きだ。最初のころは目がおかしくなるくらいハマった。脳が騙される感覚が、じつに言い知れぬ快感なのである。
 この面白みは、いったいどこから来るのだろう? 自分の内面をよっこらしょと覗きこんでみると、おそらくこれは“先天的なものに対する悪意”だと思うのである。自分の意志で作ったわけでもない身体の仕組みだとか、脳の認識メカニズムだとかいったエラそうなものが、自分で制御できる表層の意識によっておもちゃにされているさまが小気味よいのだ。「けけけけけ、馬鹿な心や身体が騙されていやがる」というわけである。大げさに言えば、私は神をおもちゃにしたいのだ。
 たしかにこの宇宙はたいそう精妙にできているし、たいしたもんだと感動はするのだけれど、こうやって“自分が意識していることを意識する存在”を故意か偶然かで生み出してしまったからには、そうそういつまでも神に大きな顔をされてはたまらない。そんなふうに考えるものだから、ほんのちょっとしたことでも、先天的に与えられたものをおもちゃにするのがやたら愉快なのである。ちなみに私は献血するのが大好きだ。ただで健康診断ができるのもありがたいが、この血で誰かの命が助かって、運命とやらの歯車の噛み合いが変わるかもしれないと思うと、あまりの痛快さに神とやらに向かって哄笑したくなる。
 なんだか話が壮大になってきた。ま、とにかく、女性の姿をした男性に男性である私が異性を感じるなどという事態も、神の作ったメカニズムが騙されているのを冷静に観察できる機会なのである。わーははは、どうだ、神さん、あんたにも手落ちがあるぞ。こんな衝動は生殖にはなんの役にも立たないのだ。……などと、神様を相手に回していい気になっていると、必ずしっぺ返しを食らうのが小説などの定石である。はたして、上記のような考えかたにもきわめてやっかいな問題がつきまとう。
 神への究極の叛逆を夢見る(おーおー)私が秘かに望むように、人間が自らの意志でもって自分の“ものの感じかた”を完全にコントロールできるようになったとしたら、どうなるだろう? 人を出自や外見で判断したり、「とにかく虫が好かない」などという理由で、いわれのない差別をしたりすることはなくなるにちがいない。だが、同様に、「なんだかわからないけど好きなの」とか「生命は理屈抜きに尊いのだ」といった感情もなくなってしまうことだろう。これは、じつに恐ろしい事実なのだが、「好きだ」という感情は“いわれのない差別”の一種なのである。
 すなわち、人類が“憎”を克服するそのときには、“愛”も同時に滅びるのだ。これはおそらく、神がわれわれを設計するときに組み込んだもっともいまいましいメカニズムであろう。冷蔵庫は必ず庫外に熱を出す。扇風機は裏へ回れば換気扇である。表裏一体となっているどちらかの性質だけを消し去ることは、原理的に不可能なのだ。
 そうなると、われわれに残された道はふたつだけである。
 ひとつは、憎を抹殺するために愛も殺すことである。いずれは精神のメカニズムがかなり深いところまで明らかにされ、ものの感じかたをすらある程度制御できるようになるだろう。肉体の医療に工学が不可欠なものになってきたように、“精神工学”とでも呼ぶべきものが出現してくるはずだ。そうなれば、幼児期に形成された理不尽な偏見を“摘出”して、より理想的/理性的なものに自我を組み替えてしまえるようにもなるかもしれない。そんな処置を受けた理性的人間ばかりになれば、少なくとも理不尽な衝動による愛憎劇はなくなることだろう。みんなが理性的に人を憎み、理性的に人を愛するわけだ。もっとも、はたしてその道を選んだ生物を“人類”と呼べるかどうかという問題は残るにせよ……(「呼べる」と私は思うが……)。
 もうひとつの道は、冷蔵庫の放熱のしかたを工夫することである。人間の暗黒面から目を背けず、その存在をひたすら冷静に見つめ、理性で制御してゆくしかない。むかしの冷蔵庫はうっかり背面をさわると火傷しそうになったりしたものだが、最近のはそうでもない。放熱のメカニズムがはるかに洗練されているからだ。あくまでアナロジーではあるが、この考えかたは人間にも適用できるはずである。絶対に忘れてはならないのは、「熱は出るものである」と考えることだ。都合が悪いからといっていくら不在を念じても、そいつの存在がなくなるわけではない。冷蔵庫の設計技師が放熱の仕組みを無視して作った製品など、すぐにどこかから火を吹くことだろう。
 人類学者や社会学者によれば、人間の社会はこのことを本能的にか知っていて、必ず必要悪としての放熱回路を不思議と作り上げてしまうそうだ。が、どうも今の日本というのは、表面的にはどんどんキレイキレイの世界になってきて、人間に不可避的に組み込まれた暗黒面の存在を前に、見て見ぬふりをしようと危険な努力をしているように思われてならない。現にあちこちで火を吹いているようだが……。あるものをないと思い込むのは、ないものをあると思い込むよりはるかに罪深いと思うのだが、どうだろう?
 私が美しいオカマさんに性欲を覚えてしまうのと、黒人の方に握手を求められたとき、(白状するが)ほんのコンマ何秒かためらってしまうのとは、結局同じことだと思うのだ。どちらも、私の責任外で形成されてしまった自我のバカな部分が騙されているだけだ。この自分の中に巣食った敵の動きをしかとレーダーで捕え(撃墜はできないのだ。なぜなら、それは自分の一部なのだから)、領空侵犯をさせないようにしておくことが、大げさな話でもなんでもなく、人類存続の鍵だとすら思う。神が人間(や人間社会)に組み込んだ自滅のメカニズムをなんとか出し抜いて、神とやらを笑い者にしてやれたら愉快ではないか。願わくば、人類の叡知がそれを成し遂げますように!



[*1]ここにこうしてホームページなんぞを出しているからには、パソコン通信は最後ではなかった。

[ホームへ][目次へ][前へ][次へ]