迷子から二番目の真実[14]

   〜 歩行 〜   [94年 5月29日]



 私は歩くのがめちゃくちゃに速いと言われる。どのくらい速いかというと、全国で最高と言われる歩行速度を誇る大阪を歩いていても、人に抜かされたことのない速さなのである。
 数人で固まって歩いていても、いつのまにか自分だけが前のほうに出てしまっているので、はなはだ困る。どちらかというと控えめな性格であり、人の前だの先だの上だのに出るのは厭なのだ。ところが、世の中妙なもので、そういう控えめな紳士にかぎって、その控えめな性格につけこまれ利用され、前だの先だの上だのに出なければならないように仕向けられてしまうのだ。あ、ハメられた、と思ったときにはもう遅い。しかも、そういう人はハメられたことに気づいていながら、なにしろ控えめで真面目なものだから、ちゃんと仕事をこなしてしまい、ますますハメられるということになる。会社というのはこわいところだ。
 おっと、なにやら話が意図的に大幅に逸れたような気がするぞ。
 とにかく、歩くのが速いのである。
 厄介なことに、本人は歩くのが速いとは、じつはちっとも思っていないのだ。世間の人の歩行速度の遅さに、いつもいらいらしているのである。
 考えてもみていただきたい。大阪造幣局の“桜の通り抜け”をやっているのではないのである。お天道様の下で大阪のオフィス街を歩いているような人間は、まずたいていが目的を持って歩いているはずなのだ。A地点からB地点へと移動するために歩いているに決まっている。「ああ、このへんのビルはきれいやなあ」などと、“ビル見”をしながら歩いている妙なやつはあまりおるまい。「ただひたすら大阪の街をぐるぐる歩いているだけなのです、いひひひひ」などという、自分を環状線だと思い込んでいるビョーキの人も、二・三人くらいしかいないはずだ。移動が目的であるなら、歩く過程はどうでもよく、さっさと目的地に着けばよいだけである。真面目な話、ドラえもんの“どこでもドア”がほんとうに発明されれば、ホワイトカラーの生産性は格段に向上するにちがいない。
 たしかに、日々の激務で疲れ切って、矍鑠とした老人にすいすい追い抜かされてゆく中年男性というのもいないではない。また、速く歩こうにも歩けない障害を負った人がマイペースで歩いてゆく光景もよく目にする。こういう事情のある人はともかく、健康な成人がだらだらとナメクジが這うようにしてオフィス街を歩いているのを見ると、うしろから尻を蹴飛ばしてやりたくなる。エラそうにスーツなどを着込み、自分で創ったわけでもない大会社のバッジをこれみよがしに光らせ、目的地に着くのを少しでも遅らせたげな顔をしてのそのそと歩いているおっさんのいかに多いことか。工場現場などでは、知恵のかぎりを尽くして、工具の置き場ひとつ、ゴミ箱の配置ひとつに工夫をこらし、5秒、6秒の効率向上を図っておるというのに、“ホワイトカラー”とやらがこれでは、日本が世界の三流国家に下落するのは時間の問題であろう。どうも、ああいう歩きかたをしているおっさんを見ると(なぜかビジネスウーマンは、見ていて気持ちいいほど、凛々と闊歩するのである)、ほんとうに歩いて行かねばならん用事なのかをまず疑ってしまう。どうせ電話かFAXか電子メールかテレビ会議ですむような用事なのではないのか。余分な移動時間や交通費を浮かせれば、電子メールはもちろん、いまやテレビ会議なんてすぐにでも利用できるようになるのだ。
「いやあ、電子なんとかだの、テレビなんとかだのと、わしらにはそういう難しげなものは、ちょっと……」あほか。商人が算盤や電話を使えなくてどうするのだ。甘えておるのではないのか。日本の繁栄を築いた、あんたがたの若いころの創意工夫の精神はどこへ行ったのだ。金持ちボケしたのではないのか。
 おっとっと。なにやら話が妙に切実に大幅に逸れたような気がするぞ。
 で、歩くのが速くてほかになにが困るかというと、女性とふたりで歩くときに困る。これはもう、たいてい歩幅のハンディキャップがあるから、あまり女性を責めるわけにもいかない。それに、ひょっとすると、こちらが“目的地”だと思っている場所と相手がそう思っている場所とのあいだに、ビミョーな食いちがいがないでもないかもしれない。あわわわわ。ま、いずれにせよ、こういう困りかたをすることは滅多にないから、歩くのが速くてもいささかも困ることはないのである。
 さて、ひとまずいやいや歩くおじさん族のことは除外するとしよう。では、若い人がさっそうと歩いているかと見てみると、これが意外とそうでもない。なんだかバランスがおかしいのである。脚を先に動かして、身体を引っぱるようにして歩いている。子供のころにあまり歩く必要がなかったのだろうか、妙にぎこちなく歩いている若者をよく目にするのである。
 そもそも、歩行とはいかなる運動であるか(……って、いつ歩行の権威になったのだ>冬樹蛉)。ひとことで言うと、“重心の連続的移動”である。素人は(……って、だから、いつ歩行のプロになったのだ>冬樹蛉)脚で歩くと思っているが、それは大きなまちがいである。
 よちよち歩きの赤ん坊をよーく観察していただきたい。興味の対象を見つける。それに近づこうとする。よろよろと立ち上がる。近づきたいという気持ちのあまり、赤ちゃんは、まず身体ごと対象にむかって倒れてゆく。このとき、赤ちゃんは最初の立脚点を中心とし身長を半径とする円を描いて回転をはじめている。あまり幼いとそのまま回転を続け、顔面・胸・腹が接地したところで止まる。立位の赤ちゃんが持っていた位置エネルギーが相当量運動エネルギーに変換され、これを顔面にまともに食らった赤ちゃんは、多くの場合泣き出す。人生とは、こういう教訓の連続なのだ。
 ところが、倒れたときの痛みをある程度学習した赤ちゃんは、やがて身体が回転をはじめると、回転を阻止しようと“脚を一歩踏み出す”ことを覚える。このとき、最初の立脚点を中心とし身長を半径とする円の接線と平行で身体の回転と方向を同じくしていた赤ちゃんの重心の運動エネルギーのベクトルが、踏み出した脚の接地点で地面に加わった力の反作用と合成され、赤ちゃんの重心を前方へ押し出すベクトルを生む。そのまま地面とほぼ平行に前方へ滑り出した重心は、やがて踏み出した脚の接地点からの鉛直線を超え、赤ちゃんは再び踏み出した脚の接地点を中心に回転をはじめる。これを阻止しようと、赤ちゃんは、一番最初の立脚点にあった脚を素早く前方に蹴り出し、移動中の重心より前方に接地する。この運動を繰り返すことによって、重心はほぼ地面と平行に連続的に前方へ移動してゆく。
 これが歩行の原点である。この基礎が正しく運動中枢にプログラムされておれば、人間は前に倒れてゆこうとするだけで、おのずと正しく歩けるはずなのだ。歩行とは、すなわち、われわれを引っぱり倒そうとする地球の力にみずからの意志で拮抗し、それによって前進する力を生み出す気高い行為なのである。どうもこのプログラミングがうまくいっていない若い人が増えてきたように思うのは気のせいだろうか。子供なんかとくにそうである。暇があれば観察してみていただきたい。きっと同意してくださると思う。
 ともかく、せめてオフィス街のビジネスマンくらいは、もう少し速く歩いてくれるようにならないものだろうか。私は、大阪弁で言うところの“いらち”なので、ただ街を歩いているだけでもストレスが溜まってしようがないのだ。こんなふうに思ってるのは私だけなんだろうか。

 そこのあなた、街を歩いてると、いらいらしませんか?



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