迷子から二番目の真実[15]
〜 外来語 〜 [94年 6月 5日]
それは、なにげなく文房具のカタログを見ていたときのことであった。
あまりの衝撃にカタログを取り落としそうになったから、よく憶えているのだ。
鎹(かすがい)型の小針で紙などを綴じる道具があるのをご存じであろう。そのカタログに出ていたものはなかなかおしゃれで、自称文房具おたくの私は、その洗練されたデザインと色彩に感嘆した。
が、写真のそばに書いてあるその道具の名前を見て、私は驚愕した。
ステープラー! ステープラーとはなにごとか!
私は多少英語を嗜む。その道具が英語でそう呼ばれていることは、もちろんよく知っている。しかし、日本語には「ホッチキス」という立派な言葉があるではないか。なにが哀しくて、いまさらこの便利な道具を「ステープラー」などと呼ばねばならんのか。
ああ、ホッチキスよ! 初めてホッチキスを使ったときの感動を私は忘れない。紙を束ね、恐るおそるその道具をあてがい、そっと閉じてゆく。「ほっち」でいったん針先が紙に当たる感触があり、一瞬緊張がみなぎる。この細い針が、うまく紙を貫くことができるであろうか。曲がったり折れたりしてしまわないだろうか……。緊張が最高潮に達したところで、決然とさらに力を込めると、「きすっ」と快い音がして、みごと紙は綴じられている。おお、素晴らしい! なんという感触! なんというメカニズム! 「ホッチキス」という名称は、この道具が機能するさまを表した擬態語なのではないかとすら思ったものである。
そのころからだ。英語が、いや、英語を模したカタカナ語が私の生活を侵略しはじめたのは……。
そのむかし、テレビのヒーローは「エネルギー」が切れてピンチになり、「エネルギー」を補給して悪を倒した。子供心に、この力強いドイツ語起源のカタカナ語に漠然とした憧れを覚えたものであった。それがどうだ。昨今の正義の味方は、「エナジー」とやらで闘う。ああ、なさけない。だが、これをなさけないと思うのも、単なるおじさんの感傷なのかもしれぬ。言葉はうつろい、変わってゆくのだ。ああ、それにしても……。宇宙戦艦ヤマトの古代進は、まだ「エネルギー充填、120パーセント!」と叫んでいたものだ。これからのヒーローは、「エナジー充填、120パーセント!」などと叫ぶのであろうか。なんだか、どこかから力が漏れていそうだ。
そのむかし、自然界には食うものと食われるものの、会社組織には上司と部下の、概念構造には上位と下位の「ヒエラルキー」があったものであった。いまはそんなものはない。代わりに「ハイアラーキー」があるのである。なにをわざわざ母音が連続する言いにくい言葉にしなくちゃならないのだ。だいたい、「ハイアラーキー」なんて、なんだかいかがわしい。アブナイ写真をいっぱい撮りそうだ。
ああ、なんたることか。音速近くでぶっ飛ばすようなレーシングカーならともかく、宅配ピザ屋のオートバイに毛の生えたような車を、いちいち「ステアリング」を握って運転するんじゃない! あれは古来「ハンドル」と言うのだ。
次から次へと入ってくる英語の新語にいちいち訳語を作ってくれとは言わない。だが、すでに古くから定着している英語起源以外のカタカナ語を、むりやり英語らしきものに置き換えてゆく風潮には困ったもんである。喫茶店のメニューに「フレンチ パンケーキ」とあるので、いったいこれはなんだろうと思ったら「クレープ」のことであった、などという話も最近知人から聞いた。この調子で事態が進行すれば、具合が悪いと病院へやってきた「ペーシェント」の腹を「スキャルペル」で切り開き、病状を「カード」に書き込む世の中になるにちがいない。なんだか、治る病気も治らんような気がする。
聞くところによると、英語の侵略に困っているのは日本ばかりではないようで、フランスやドイツでも、いまや“元英語”の言葉が、とくに若者のあいだでは氾濫しているそうである。フランス人が母国語の純血性にヒステリックなくらい厳格なのは有名だが、そのフランスにしてそういうありさまなのだという。
どうしてこんなに英語の力が強いのか、考えてみると不思議である。ただなんとなく、過去の大英帝国に思いをはせたり、ちょっと前のアメリカの実力を思って、「そりゃまあ、無理もあるまい」と安易に納得してしまうのは簡単なのだが、ほんとにそんな単純な理由だと信じることができるだろうか。もはや、イギリスやアメリカの経済や文化が、他国に比べて圧倒的にすぐれているとはお世辞にも思われないのに、この調子なのだ。英語を使っている国の国際的地位などとは別に、なにかもっと本質的な理由があるのではないだろうか。
イギリス人はいざ知らず、アメリカ人を見ていて思うことがある。英語のこの恐るべき浸透力の秘密は、フランス語とは逆に、言語の純血性などという概念とは無縁な、あけっぴろげな節操のなさにこそあるのではないか。
「こういう微妙な趣はわが国の言葉でしか表現できまい」といった驕りが、おそらく多くの国の人々にあるにちがいない。日本人なんか、その最たるものだ。この思い込みは一面では真実だが、他言語を使う人の前でそれを言っちゃあおしまいなのだ。
その点、むろん歴史的経緯によるところも大きいだろうが、英語は、まるでブラックホールのように他言語を貪欲に吸い込み語彙を膨らませ、しかも言語としてのアイデンティティーを失わなかった。どんな概念だろうが、強引にでも説明しようとし、また翻訳してみようとする貪欲さが英語にはある。それがだめなら、そのまま取り入れてしまい、「これはもう英語です」と言わんばかりに、ちゃっかり辞書に載せてしまうというところもある。現在の英語の語彙から外来語を取ったら、アングロ海賊の吠え声しか残らなくなるんじゃないかとすら思うくらいだ。
最初のうちは滅多に自民族の王様を戴かなかったヨーロッパの島国で育まれ、世界中の人間が寄り集まった人種の坩堝で過酷に磨かれた、ある意味で悲運な、またある意味で奇跡的に幸運なとんでもない言語が英語なのだ。しかも、いまや、イギリス人やアメリカ人が使っている言語は、あくまで“英語の一部”にすぎなくなっており、いい意味で国籍不明の言語になってしまっている。SFの宇宙人が流暢な英語で喋っても、なるほど、英語だったら、そういうことが起こりそうな気さえするのである。
そう考えると、あまり厳格に母国語の純血性とやらにこだわると、逆に母国語を弱体化させることになるのかもしれないとも思う。日本語だって漢語で豊かになってきたわけだし、和語と漢語との二重構造をこそ武器に変じた“かな”の大発明によって、世界に誇るべき素晴らしい表記法も編み出した。やはり、あまりに閉鎖的な言語は、進化も止まってしまいかねない(進化が止まったおかげで、むかしの文献が現代人にもすらすら読める、なんて言語もあるようですけどね……)。
……とは言ってもですねえ、やっぱり「ステープラー」はないんじゃないの、「ステープラー」は! 書類を綴じるたびに、鎖国派と開国派が私の頭の中でチャンバラをはじめる今日このごろなのであった。