迷子から二番目の真実[17]
〜 ファーストフード 〜 [94年 6月22日]
私は、大阪弁でいうところの“いらち”である。標準語ではニュアンスが説明しにくい言葉なのだが、強いて言えば“じれったいことに対する耐性がない”といった意味である。
「はて、おまえはサラリーマンであったはずだ。じれったいことに対する耐性がなくては、サラリーマンが勤まらないではないか」という穿ったご指摘があるかもしれない。まことにごもっとも。しかし、そもそも金のもらえる仕事がそうそう楽しいものであるはずはなく、自分の性格に逆らうストレスに耐えることがお金になるのだと割り切ってしまえば、私のような人間でも一応サラリーマンは勤まるのである。ある程度は、“演技する楽しみ”みたいなものも覚えたので、なんとか十年近く[*1]続いているのであろう。
それはともかく、“いらち”だからといって、なにもかもにせっかちなわけではない。自分が価値を認めることに関しては、いくらじれったくてもいっこうにかまわない。そうでなければ、本なんて読めるものではない。どうでもいいと思っていることの手続きや進行がじれったいとき、“いらち”の本領が発揮されるのだ。
その最たるものが、食事である。
たまに東京へ出てゆくと呆れるのが、お昼時の食堂の行列だ。蕎麦屋だろうが弁当屋だろうが、とにかく行列ができていてあたりまえという悲惨な状態である。こうまでしないと昼飯も食えない街がわが国の首都であるかと思うと、そこはかとなくなさけないものがある。まず、三人以上の行列ができていたら私は踵を返すことにしている。時間の無駄だ。パンでも買って食う。そのパン屋ですら行列ができていたりするのだから、東京で昼飯を食うのはまことに精神衛生に悪い。だものだから、同行者がいるときはべつとして、午後からの仕事の場合は、できるだけ新幹線の中で昼飯を食ってから帝都に降り立つことにしている。
東京ほどではないにせよ、近年大阪のオフィス街の食糧事情もだんだんひどくなってきていて、それに目をつけたパン屋や弁当屋が路上のあちこちにライトバンの臨時店舗[*2]を開いており、私は主にそれを利用している。パンだろうがおにぎりだろうが、少なくとも自分の席でゆっくり食うことができるからだ。食堂で食うと、待っている最中はいらいらするし、食っている最中は待っている人の視線を感じるし、食い終わったあとは待っている人のことを考えるとゆっくりもできず、そそくさと席を立つことになる。養鶏場のブロイラーにでもなったような気分だ。事情が許すかぎりは、人間の尊厳を傷つけられてまで食堂で飯を食おうとは思わない。
だものだから、私は一日に一度、夜にしか“食事”はしない。あとの一回ないし二回は、“食事”ではなく“エネルギーの補給”を行っているだけである。栄養の補給が目的の食事は、いっそ錠剤ですめばそれにこしたことはないと思っている。食べることを楽しむ目的の食事は、時間的余裕のあるときに別途ゆっくりとすればいいのだ。すでに人類はセックスにおいては生殖と享楽とのふたつの目的を分離しているのだから、食事も同じようになっていったとて不思議はない。栄養補給と享楽の目的を同時に満たせるほど贅沢な生活を許されている人は、そんなにはいない。
そういう性格のせいか、私はやたらファーストフードが好きである。とにかく、すぐ出てくるというのがいい。「まことに申しわけございませんが、チーズバーガーは五分ほどお待ちいただくことになってしまいますが……」おお、上等じゃん。五分くらいだったら、二時間でも待ってやる。
卵が先か鶏が先だったのかはさだかでないのだが、ただ速いからファーストフードが好きだというわけでもない。私は、ファーストフードそのものの味がこれまた大好きなのだ。ハンバーガー、フライドチキン、ピザ、牛丼……ジャンクフードと笑わば笑え、この愛すべき食べ物なくしてなんの人生か!
おお、ハンバーガーよ! 二段にも三段にも重ねた豪華なバンズを両手でしっかと掴み、大口開けてかぶりつくあの快感。歯先が両側からさまざまな感触の素材を切断してゆき、ハンバーガーの中心部でカチリと噛み合う感激。はみ出るケチャップ! 滴る肉汁! アメリカ人に感謝する一瞬である。
またあのシェイク類がいい! なかば凍ったシェイクの中にストローを突き立てるときの一種性的なまでの快感。最初のうちは吸ってもなかなか中身が上がってこず、やがて大気圧に負けたストローが扁平になり、硬口蓋が痛くなってくる。負けじと吸っていると、突然つかえが取れたようにわが執念に屈したシェイクが、扁平ストローからきしめんのようになって口の中ににゅるにゅると噴出してくる。ああ、この甘美な舌ざわり。
フライドチキンも捨てがたい。けっして必要以上に金をかけて育てたわけでもない、なんの取り柄もないカスカスの素材が、圧力で強引に油を染み込ませたような押しつけがましいみずみずしさを伴って開花する調理の魔術。ほとんどスパイスを食っているにもかかわらず、あの充実した食感。カーネル・サンダースを道頓堀川に投げ込んだ阪神ファンに禍あれ!
ピザ! 麗しのピザよ! 春は曙、ピザは宅配。あのスットンキョーなデザインのバイクがギギッと停車する音を聞くときの胸のときめきよ。ほかほかの段ボール箱を開けるとき、私の手は喜びにふるえる。気前よくペットボトルの甘ったるいコーラをおまけに付けてくれたりするのもいい。ああ、これだけのカロリーを消費するには、いったいどのくらい満員電車に揺られ、てくてく歩かねばならんかと思うと、武者ぶるいがしてくるではないか。チーズ! びよよよよ〜〜〜んと伸びるチーズ! はふはふふしゅふしゅはふふしゅしゅるると伸びたチーズを吸い込む至福のひとときよ。以前読んだ小説に、イギリスに渡って来たニューヨークのOLが、イギリスにはピザの宅配の習慣がないことを知って憤慨し、英国人はとりすました阿呆の集団だと断じる場面があったが、あれは妙に説得力があった。レストランですました顔して食うものではないのだ、ピザは。テレビを見ながらコーラかビールで流し込むものである。
牛丼もすばらしい! あの刻んだ古タイヤのような腰のある肉片の食感は、私を天上の陶酔にいざなう。卵をかけなくては嘘だ。卵のない牛丼なんてクリープを入れないコーヒーのようなものだということは、宮本亜門[*3]でなくたって知っている。卵の扱いにはいろいろ流派があり、牛丼愛好家なら誰でも一家言持っているものであるが、私のやりかたはこうだ。まず、丼の中央に穴を掘る。そこによく溶いた卵を流し込み(経済的に余裕のあるときは二個入れるのが好ましい)、さらにすべての肉片をぎゅうぎゅうとその穴に押し込む。次に、丼の縁のほうから米を掘り進み、さきほど作った卵井戸に達したら卵でぬとぬとになった肉片をつまんで、米の下を通して縁から引きずり出す。これを米の上に乗せて、丼の縁に口をつけてそのままかき込むのである。一度お試しいただきたい。あまりうまそうなので、周りの客が真似をはじめるかもしれないが、けっしてじろじろ見たりしてはいけない。この作法に則って牛丼を食しているときは、お世辞にもエレガントな姿をしてはいないからである。お互いに顔を見ないように、丼の中が自分にとっての全宇宙であるかのような顔をして、黙々と食べるのが牛丼屋でのマナーというものだ。
かくも愛すべきファーストフードたちであるが、けっこう高いのが珠に傷である。私がファーストフード愛好家になったのは、意外かもしれないが社会人になってからだ。貧乏学生のころは、「いつの日か、マクドナルドで腹一杯食えるような、ひとかどの人物になってやる」と大志を抱いて、ひたすら勉学に励んだものだ。朝からマックの隅の席に陣取り、ときどき腹ごなしに散歩に出ながら、片っ端からメニューを消化していけたらどんなにいいだろう。チーズ・クォーター・パウンダーは少なくとも三個は食いたい……若いころは自分の能力を過信した壮大な夢を描くものであり、それがまた三十を越えると、面はゆく、眩しく思い出されるものである。
ちなみに、まだ若き日の夢は実現していない。「いざ実行!」というときには決まって、「やっぱりもったいないな」とか「腹を壊したら仕事に差し支えるな」とか「いくらなんでも身体に悪いのではないか」とか、みみちい小市民的なことを考えてしまうのだ。結局のところ、まだまだそういうことができるだけの身分にはなっていないということなのだろう。
まあ、いくつになっても大きな夢を持ち続けていたいものである。
[*1]その後、とうとう勤続十年を迎えてしまった。
[*2]その多くは無許可であり、保健衛生上きわめて問題が多いことが新聞で報道された。かといって、安いものは安いし、早いものは早いのだから、やっぱり利用する頻度は高い。
[*3]執筆時期を髣髴とさせるギャグである。