迷子から二番目の真実[18]

   〜 通勤 〜   [94年 6月30日]



 あー、暑い。会社へ行くのがつらい季節になってきた。昨年生まれて初めて自分の部屋にエアコンを付け、わしもえらくなったものじゃと使いまくっていたら、身体がすっかりエアコン依存体質になってしまった。うっかり外を歩こうものなら、鍋で煮詰めた水飴の中を泳いでいるかのように感じてしまう。ラッシュ時の電車など、轟々と冷房が音を立てているわりには、ちっとも涼しくない。雨など降ろうものなら最悪だ。本当に気が遠くなってきて、あわてて体勢を立て直したりすることもしばしばである。
 こんなふうに書くと、しょっちゅう倒れているみたいに聞こえるが、私のように身体の弱い人間は自分で気をつけて本当の無理はしないようにするので、ふらふらしながらも意外と倒れないものなのである。その代わりと言ってはなんだが、どうもむかしから私には妙な能力があって、電車に乗っていると、決まってまわりの人がバタバタと倒れる。人間除虫菊と呼んでいただきたい。ひょっとしたら、そばにいる人間から生気を吸い取って、自分は倒れないようにしているのかもしれない。
 学生のころだった。吊り革にぶら下がっていた中年男性がゆらーりと揺れたかと思うと、ドア脇に立って本を読んでいた私にもろに倒れかかってきた。彼は私にぶつかった反動でそのまま仰向けにぶっ倒れ、大の字になって伸びてしまった。眼鏡がふっ飛び、反対側のドアに当たって力ない音を立てた。泡を食った私は「すいません!」を連発しながら車内を走り抜け、車掌を呼びに行ったものである。これはもう、人の命にかかわることであるから、健康な乗客など跳ねとばして走って行ってもよいのだが、謝りながら走るあたり、われながら気の小さいやつだ。次の駅で待ち受けていた駅員が無事男性を運び去った。ただの貧血だったのか心不全だったのか脳溢血だったのか、その後彼がどうなったのかはさだかでない。ほっとひと息ついたとき、自分が文庫本の読みさしのページに、ちゃんと人差し指を挟んで持っている(癖なのだ)ことに気がついて苦笑した。そのまま車掌を呼びに行っていたわけだ。よっぽど気が動転していたのか、場ちがいに冷静だったのか、いまだによくわからない。その本は、カミュの『シーシュポスの神話』だったのを妙に鮮明に憶えている。
 最近、ひしひしと歳を感じる。電車内が殺人的に不快なときなど、ああ、おれが倒れる番がいつ来るのだろう、などと考える。身体が資本とはよく言ったものだ。何十年もこの通勤地獄に耐えるサラリーマンというのは、つくづくすごい職業だと思うのである。
 たとえば、だ。自宅から100キロメートルのところに職場があるとしよう。このくらいの距離を通勤している人はざらにあるであろう。往復で200キロだ。完全週休二日として、週に1,000キロ。なんだかんだで休みもあるから、一年50週として、50,000キロである。すると、八年で400,000キロだ。
 400,000キロというのがどのくらいの距離か、ピンと来る方もいらっしゃるだろう。そう、地球から月までの距離が約380,000キロなのである。なんと、片道100キロ通勤のサラリーマンは、八年で月まで行ってしまえるわけなのだ。十六年なら、800,000キロの距離を通勤のために移動することになり、これは月まで行って帰ってきて、さらに地球を一周したのと同じことになる。こうした通勤生活を三十二年間続ければ、こんな大雑把な計算でも、月−地球間を二往復して地球を二周できる距離を移動することになるのがわかる。光でさえ、約2.7秒はかかる距離なのだ。これは、どえらいことである。さらに調子に乗って計算すると、こんな通勤生活を送っているサラリーマンが94人集まれば、その三十二年間の通勤距離は、150,400,000キロ、つまり、太陽まで届いてしまうのだ。
 いやはや、この94人が、ぎゅうぎゅう詰めの銀河鉄道に乗って、漆黒の宇宙空間を太陽に向かって黙々と通勤(?)している図を想像すると、ため息が出てしまう。ひとり倒れ、ふたり倒れ、最後のひとりは、誰もいない満員電車(!)に乗ったまま太陽に突っ込んで燃え尽きてしまう……。鉄腕アトムもそこのけの泣かせるシーンではないか。
 こんなふざけたことが、日本ではいったい何年続いているのだろう。また、これから何年続くのだろう。たしかに会社まで身体を移動させないとできないこともあるが、本当にみんながみんな毎日毎日ひとところに集まらなきゃ仕事ができないのだろうか。だとしたら、なんのための科学技術なんだろう? 顔突き合わさなきゃ意志の疎通もできないような、知性と想像力を欠いた動物なんだろうか、人間というのは?
 そうですな、たとえばこれは純然たる想像なのだが、ある医薬品が人の命にかかわる深刻な副作用を持っていることが判明したとしよう。いまの日本の風土であれば、「おやおや、これはたいへんなことだ」「たいへんですなー」「場合によっては人が死ぬそうだ」「おやまー、それはほんにたいへんなことだ」などと、会議が終わってからひとごとのように(当人たちにとってはひとごとなのだが)居酒屋で雑談し、「まー、連休明けにでも、ゆっくり説明して回らせますか」「そーですなー」「こういう重大なことは、やはり生身の人間が一件一件医療機関を回って、人と人とのふれあいを通じて伝えねば、しっかりとは伝わりませんからなー」「ごもっとも、ごもっとも。電話だのファックスだのというのは、冷たくていけませんなー」「ああ、あれはいけません。人間性の否定に繋がりますなー」などという展開になりそうな気がする。なるだろう。なるにちがいない。
 中にはそうした馬鹿げたことに気がついて、会議を中途退席してパソコンに飛びつき、「○○に人命にかかわる副作用あり。急遽使用を中止されたし」とだけ書いた通告文を30秒で作成し、 NIFTY-Serve の電子メールで関係医療機関に同報ファックス送信[*1]しようとする人が現れるかもしれない。それも、一刻も早くできるだけ多くの人に知らせようと、数十件ずつに分けて送信しようとするかもしれない。どんな職場にも、あたりまえのことをあたりまえに言ったりしたりする人は必ずいるものである。
 しかし、私はきわめて悲観的な方向へ電気パルスが流れる思考回路を持つ人間であるから、こんな展開も想像してしまうのだった。
「こ、これはえらいことです! すぐパソコン通信で同報ファックスします。同時に事務員を集めて、ありったけの電話で○○の使用中止を呼びかけます!」
「ちょっ……と、待ちたまえ、キミ。そんな前例はない。それに、これほど重大な情報を、うちがそんないいかげんな手段で伝えたことが世間に知れたら、あとでなにを言われるかわかったもんではない」「い、いやしかし――」「実績のある方法がいちばんなのだよ。キミら若い者には不合理に見えるかもしれない方法にも、なにしろ長年そうやってきたのだから、それなりの深ぁ〜い理由があるものなのだ」「どーゆー理由でしょうか??」「あー、それはだね、まー、だから、実績があるという理由なのだよ。わかるね?」
 こんなことをしているあいだに人死にが出たら、これは立派な集団殺人だと思うのだがどうか。たしかに誰が悪者というわけでもなく、みんな精一杯生きているだけなのだ。だが、事実、どこかで誰かが加害者なき被害者となることであろう。ひとつひとつは微々たる未必の故意が累積され、道行く人にある日突然襲いかかる。いわば、“関係者全員共謀殺人”と、自分は直接手を下さない“触媒殺人”とを組み合わせてやっているのだ。本家アガサ・クリスティ女史もびっくりの完全犯罪である。人間が(とくに日本人が)ふたり以上寄り集まった組織は、多くの場合、潜在的にこうした犯罪集団になり下がりがちだ。私だってあなただって、明日は咎めなき殺人者となる身なのである。お互い聖人面はよすことにしよう。

 あー、なんだか殺伐とした気分になってきたけれど、実際に起こったわけでもない想定例の話ばかりしていても説得力に欠けるから、ここらでやめておこう。なにしろ、明日も通勤しなければならないのである。余計なことを考えてエネルギーを消費しないで、勤労に向ける活力を温存しておかねばならない。

 みなさま、お勤め、ご苦労さまです。



[*1]いまとなっては手軽な方法がいろいろあるが、やっぱり同じ展開になりそうな気がする。

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