迷子から二番目の真実[20]
〜 機械 〜 [94年 8月 2日]
私は機械フェチである。
炊飯器や冷蔵庫、エアコンなど、家電製品を買うととにかく説明書を隅々まで読んで、そこに書かれている機能をひとつひとついちいち試してゆく。そのとおりに動くと、「おおお」とか「ほっほー」などと感嘆詞を連発し、ときおり「にひひひひ」と笑ったりする。そばで見ている者の目には、たいへんアブナく映るという。なにか新しい機械を買うと、しばらくはそれにとり憑かれたようになってしまい、骨までしゃぶるようにしてささやかなしあわせに浸る日々が続く。特に“小さくて複雑な機械”となると、もうたまらない。ラジカセでも腕時計でも電子手帳でも、機械というよりは、ほとんどペットのように愛でることになる。ちょっと異常かなと自分でも思うのだが、べつにこれで人に迷惑をかけたことがあるわけでなし、子供には多かれ少なかれこういう傾向があるのだから、少年の心を失わずに大人になっているのだと自分に言い聞かせ、ひとり納得している。
機械に対するこうした気持ちをなんと呼べばいいものか困っているのだ。“愛情”というのは、なんだかちょっとちがう。そんなに湿度の高い感情ではない。“好奇心”では足りない。対象物をよく知ったあとも持続する感情だからである。では、“愛着”かというと、それも変だ。使いはじめて間もない機械に対しても生じる感情だからだ。やっぱり“フェティシズム”としか言いようがない。
この感情のよって来たるところをじっくりと内省してみると、いくつかの興味深い点が明らかになる。例によって、重箱の隅をつつくようにしてほじくりかえしてみよう。
まず、やがて気に入ることになる機械を前にして最初に思うのは、「あ、すごい」である。この段階では、いったいなにがすごいのだか自分でもよくわかっていないのだ。「いったいこれはどういう機械なのだろう」とか、「なんだか見た目がかっこいい」とかいった漠然とした興味である。重要なのは、「そうそう、これが機械でできたならどんなにいいだろうと思っていたのだ」などという、実利的なありがたさなんかではけっしてないということである。このあたり、多少恋愛と似ていないこともない。
次に来るのは、抑えがたい好奇心だ。「説明書にあるこの機能は、いったいどういうときに役立つのだろう」「このボタンは、あそこでなく、どうしてこの場所にあるのだろう」「このつまみの形には、なにか意味があるのだろうか」……これはつまり、設計者の意図を読もうとしているのである。あるいは、どこまでが設計者の意図したことで、どこからがそれ以外の要因(たとえば、社風やマーケティング戦術)によるものかを読もうとしているのだ。
この段階がいちばん面白い。一個の商品として目の前にある機械は、一編の推理小説にも匹敵する。「おお、なるほどそうであったか!」と、ちょっとしたボタンの配列や操作のしかたに込められた設計者の深い意図に気づくとき、機械はただの機械でなくなる。その向こうに人間の姿が透けて見えてくるのである。「この表示板の位置は、合理的観点からは、ほんとうはここに持ってきたかったんじゃないかな。だが、そうすると社名のロゴプレートの位置が悪くなるな。きっと設計者とデザイナーとのあいだでひと悶着あったろうな。これはデザイナーが勝ったんだろうな」などと、勝手なドラマまで想像してしまうのだ。面白くないわけがない。こんなことを考えているうちに、“商品としての機械”の開発過程を追体験している自分に気がつく。これはなにも工学やマーケティングの知識がなくたって(あるに越したことはないだろうが)、私のような一般のユーザにも楽しめることなのである。むしろ、機械を実生活の中で使用する一般のユーザにしか見えてこない側面というのも、たしかに存在するのだ。このあたり、書評と似ていないこともない。
こうして得られた自分なりの感動は、人に伝えたくてたまらなくなってくる。この製品のこの部分は、これこれこういうふかぁーい理由でこんなにいいのだ、君もぜひ買いたまえ、てな調子で、周囲に宣伝して回ったりする。周囲にとってはいい迷惑で、「また、冬樹のアレがはじまった」などと思っているにちがいないが、メーカにとっては理想的なユーザであり、開発主幹は菓子折りのひとつも提げてやってきてくれてもバチは当たらないと思う。そのかわり、機能やデザインになんの必然性も創意工夫も感じられないような機械に対しては冷たいものである。自分が実害を受けていない製品については、「あれは買わないほうがいい」とまでは口にはしないものの、「まあ、人好きずきだからねぇ」くらいの攻撃に留める。ただし、自分が金を払わされて後悔したような製品となると、もう、口をきわめて罵ることにしている。被害者はひとりでも少ないほうがいいのだ。
さて、次の段階に入ってくると、機械が身体の一部になってくる。なにをおおげさな、と思われるかもしれないけれど、人間は多かれ少なかれ、自分の外部に身体の一部を持っているのがふつうなのである。それが人間の人間たるゆえんだ。眼鏡をかけている人にはご理解いただけることと思う。たまに外していると、ずり落ちてもいない眼鏡の位置を直そうとして手を顔の横に持っていってしまい、指が虚しく空を切ることがある。まるで、なにかのまちがいで身体の一部を取り外してしまったかのように感じるのだ。まさしくこれと同じようなことが、十分に使い込んだ機械とのあいだには起こるのである。
先日、パソコンが壊れて、買い替えるまでのあいだ使えなかったとき、私はほんとうに自分の身体がひとまわり小さくなったかのように感じて、改めて驚いた。いつしかわが愛機は、自我の一部になっていたわけだ。また、私は自動車の運転免許を持っていないが、愛車家の言うことにはうなずけることが多い。ベテランのドライバーが、電信柱や塀とのあいだにわずか数ミリの隙間を保ったままみごとに駐車したりするのを見ると、むべなるかなとひたすら納得する。彼らにとっては、痛覚こそ通っていないものの、車体に想像力の神経が通っているも同然なのであろう。いや、ひょっとすると、塀に擦ると痛みすら感じているのかもしれない。
こうした実感を遠心的に追求してゆくと、みずから作り出したメディアによって人間自身が“拡張”されてゆくという、おなじみマクルーハン的な考えかたが出てくる。また、求心的に追求してゆくと、人間は遺伝的に与えられている肉体すら十分には使いこなしていないのではないか、灯台もと暗しなのではないかという、いわば、肉体や精神をもひとつの機械として捉え、それを意図的、合理的に制御しようとする考えかたが出てくる。スポーツに秀でた人は多かれ少なかれこの傾向があるようで、彼らの挙動を見ていると、あたかも機械のメンテナンスをするように自分の肉体や精神を気遣っている。肉体をめちゃくちゃにいじめるのがよいのだ、根性がすべてを制するのだといった考えかたは最近は流行らないようだ。根性が重要であるにしても、その根性を生み出す心の仕組みをこそ制御しようという方法論が、日本のスポーツ界でも支配的になってきているとのことだ。まあ、スポーツの分野には疎いから、あくまで報道による表層的な知識でものを言っているにすぎないのだが、一介の機械フェチでもこの程度には想像力を働かせることはできるのである。遠心的にしろ求心的にしろ、この問題を突き詰めてゆくと、「人間にとって身体とはなにか」という哲学的深淵が口を開けて待っている。まあ、これは学者先生方にお任せするとしよう。
さらに、機械が肉体の一部であるかに感じられる段階になってくると、逆に機械が“透明”になってくる。この文章を読んでおられる方々は、必ずパソコンかワープロを使ってらっしゃるわけだから、この点については異論のないところだと思う。キーボードの操作に習熟してくると、誰でもこの境地に達するからである。どのキーがどこにあるか、などと意識しているうちは、打鍵は速くならない。ある程度、タッチタイピングができるようになると、興に乗って文章を書いているときなど、ディスプレイに次々と現れる文字列と自分の脳とが直結しているかのような感覚に目覚めるものだ。この感覚は当初はたいへんに新鮮で、麻薬的な快感をもたらす。プロの作家の中にも、このキーボードの魔力がなかったら作家になっていたかどうか疑問だとすら述懐する人がいるくらいである。途中からパソコンやワープロを使いはじめた作家も、もはや戻れないと異口同音に述べている。ここでも、彼らはただ推敲に便利だとか、電子入稿ができるとか(実際にこれができる出版社は少ないそうだ。企業のほうが遅れているのである)、実利的な側面のみを強調しているのではないのだ。機械を肉体の一部と化すことの快感に、不思議な魅力を見ているのである。
じつは、多くのワープロ作家に先んじて、昭和十五年にこの現象を間接的に予言している作家がいる。坂口安吾だ。ちくま文庫版・坂口安吾全集14(筑摩書房、1990)に初めて収録された「文字と速力と文学」というエッセイで、安吾は言う――「私の想念は電光の如く流れ走っているのに私の書く文字はたどたどしく遅い。私が一字ずつ文字に突当っているうちに、想念は停滞し、戸惑いし、とみに生気を失って、ある時は消え失せたりする」「私は思った。想念は電光の如く流れている。又、私達が物を読むにも、走るが如く読むことができる。ただ書くことが遅いのである。書く能力が問題なのではなく、書く方法が速力的でないのである」
驚いたことに彼は、速記術を習う金がないからと、自分で速記体系を考案して、しばらく試みたことさえあるという。なにしろ、不必要にわかりにくい文章で書かれた、取るに足らぬ身辺雑記を“文学”としてありがたがる風潮がまだ残っていた時代の話である。“文字を書く速力”が問題だなどと言ったら、まず大方の権威筋の失笑を買ったにちがいないのだ。そのあたりをものともしないところが、いかにも安吾らしくて、私は大好きである。こんな考えかたをする安吾のことだ。もう少し遅く生まれていたら、嬉々としてワープロ派になったのではなかろうか。今のワープロなら、私小説・歴史小説・推理小説・ファルス・戯曲・エッセイ・ルポなんでも書いた安吾でも(もう十年長生きしていれば、きっとSFも書いたにちがいない!)漢字がなくて困るということはないはずだ。スポーツマンだった彼の運動神経を以てすれば、タイピングなんかあっという間にマスターしてしまっただろう。
少し話がそれた。
最後の段階について話そう。
機械が透明になってしまうと、徐々にある衝動が頭をもたげてくる。これが最終段階である。「この機械を、ほかの用途に使えないものか?」
これがいちばん難しい。だが、とんでもない利用法を思いついたときの喜びと興奮はなにものにも代えがたい。セーターの毛玉取り機を発明した人は、きっと電気髭剃り機から思いついたのであろう。プログラムなど一行も書けないにもかかわらず、手軽に入手できるフリーソフトをブラックボックスとしてうまく組み合わせ、難なく目的を達成してしまう“プロのエンドユーザ”とでも呼ぶべき人もいる。また、こんな話も聞いたことがある。「気圧計を使って建物の高さを測りなさい」と言われたある学生は、気圧計を建物の屋上から落として、地面に激突するまでの時間を測ったという。
与えられたものとして機械を使っているうちは、こうした創造が出てくる余地はない。メーカがどんな御託を並べようが、「おれはこう使うのだ」という開き直りが必要である。その“地図にない街”を捜すための地図として、機械というものを使ってゆければ楽しいではないか。よくできた地図はそれなりに役に立つし、また、いいかげんな地図であればあるほど、武者震いがしてこようというものだ。巷で議論のかまびすしいマルチメディアなんて、その最たるもんじゃなかろうか。愚昧な大衆はほっといたらなんでも“わや”にしてしまいよるさかい、高邁な思想に基いた完成品をお上が下賜してやらんとあかん、などと考えているのだとしたら、ちゃんちゃらおかしい。ほっといてんかと言いたい。ごちゃごちゃゆーてんと、えーかげんなもんでええから、はよ使えるようにしてしまいなはれ。賢い人は赤絨毯の外にも霞ヶ関の外にもよーけいてはるんやで!
そういう意味で、機械なんてどうでもいいとほんとうに思っているのは、じつは機械フェチの人たちなのかもしれないのである。