迷子から二番目の真実[21]
〜 倹約 〜 [94年 8月 7日]
最近、倹約が流行っているらしい。こういうのはミニスカートみたいなもので、思い出したころにブームになったりするのだ。いったんブームになると、猫も杓子も倹約ムードになってしまい、おカネを使うと人類の敵扱いされるようになる。なあに、また何年かすれば浪費がトレンディーになって、貧乏人は人間じゃないと言われはじめるに決まっている。いちいち流行につきあっているほど、こちらは暇ではないのだ。どうぞ、好きにやってください。
もちろん、なにをするにしても、おカネはないよりはあったほうがいい。だが、なにもしないのだったら、おカネなど持っていてもしようがない。そういうおカネは私にください。私は根が欲ばりで、カネと時間と体力の許すことであれば、なんでもやってみたくなるタチなのだ。その結果、なにも本格的には身につかず、つまらない技能や知識の断片が、夢の島のゴミのように頭の中に堆積してゆくだけということになる。おカネと時間の浪費のために生まれてきたような人間だから、おカネの使いみちに困っている人は、気軽にご相談いただければ、いくらでも使ってさしあげる。
こういう性格だから、豊富におカネのある状態というのを体験したことがない。いつもピーピー言っている。私の公的な顔しか知らない人は、独身で真面目そうで目立った道楽もなく博打もせず女遊びもせずアル中でもないヘンなやつだから、しこたま貯めこんでいるにちがいないと思っているらしいのだが、まったくそんなことはない。つまらないことにおカネを使うのが厭なだけだ。そして、衣服や住居や食べものにおカネを使うのは、私にとってはつまらないことなのである。そのあたりがどう説明しても理解してもらえない。それどころか、下手に説明すると、私こそつまらないことにおカネを使っているということになるのだった。
どうも世間の多くの人は、人間には学校のカリキュラムのような“ライフプラン”や“ライフスタイル”などというものがあって、そのカリキュラムどおりに生きていない人間がいてはならないと思っているかのようである。保険屋の陰謀だとしか思えない。大きなお世話なのだ。風俗産業でアルバイトをして、歯科医をやっている内縁の妻と十数年暮らし、カンボジア難民の子供を引き取って、趣味でプラナリアの研究をし、プラナリア研究者仲間の奥さんの紹介で毎週水曜日にちぎり絵教室に通い、文藝春秋とFLASHと日経サイエンスと噂の真相とログアウト[*1]は毎号読むという人間がいたって、いっこうにかまわない。そういう人にとっては、またそういう人なりの有意義なおカネの使いみちがあるはずだ。
“倹約”という言葉には、そうした人それぞれの生きかたを無視して、有無を言わさず型にはめてしまおうとする暴力的なものが感じられる。絶対的な価値観としての“倹約”などありえないのだ。「いままで600円のA定食を食っていたが、今日からは520円のB定食にしよう。来月200万円の顕微鏡を買う予定だからな」というのが佐々木さんにとっての“倹約”であり、「300万の車を買おうと思っていたが、やっぱり100万くらいのものにしておこう。昼飯には800円くらい使いたいからな」というのが、佐藤さんにとっての“倹約”なのである。なんでもかんでも出費を抑えて、預金残高ばかりが徒らに増えていっても、喜ぶのは銀行だけだ。
私の祖母は、ものすごい“倹約家”だった。祖母くらいの年代の人は、なにしろむかしひどい目に会っているから、そうなるのもいたしかたないのはわかる。だが、ときに喜劇的な倹約をしているのを見て、私は複雑な心境になったものだ。幼稚園に通っていたころは同じアパートに住んでいたので、私は伯母と二人暮しの祖母の部屋に入り浸っていた。私の家にはほとんどなかった“本”という不思議なものを、伯母が持っていたからである。世の中には言葉の意味ばかりを書いた本や、外国の言葉とその意味するところを説明した本があることを、私は伯母から知った。私が“こどもむけ”の本に飽きあきしていることを見破ってくれたのは伯母だったのだ。
ある日、私は祖母の押し入れの中に妙なものを発見した。
「おばあちゃん、これ、なんでこんなにあるん?」
「ああ、それか、もったいないさかい残してあるんや」
「塩からいのは嫌いなんか?」
「いやあ、そうでもないけどな」
それは、十数袋のインスタントラーメンの粉末スープであった。
ふつう、インスタントラーメンには、ひと袋にひとつ、粉末スープが入っている(当時は、何種類も別包のスープがついているなんてことはなかった)。祖母はこれを毎回半分ずつしか使わず、やたら薄味のラーメンを食べていたのである。では、残った半分はどうするのかというと、次にラーメンを食べるときに使うのである。すると、次のラーメンに入っていたスープは封を切られずそのまま残る。これが繰り返されると、どんどん粉末スープが貯まってゆくのである。
祖母がとくに薄味が好きだったわけではない。漬け物の名手で、自身も漬け物がたいへん好きであった祖母の味付けは、私もよく知っている。「で、これ、料理とかに使うんか?」「いや、べつに使わへんけどな」……夜な夜な丑三つ時に起き出しては、インスタントラーメンのスープを嘗めているのを見たこともない。ほんとうに、ただただひたすら貯めてあるだけだったのである。祖母にとっては、なにかがまるまる“ひとつ”自分に割り当てられるということ自体が“もったいなくもありがたいこと”だったのであり、それを一度に全部使ってしまうのは罪悪だったのである。私は爆笑したが、同時になんとなく哀しくなってしまった。祖母のこういうところは、完全に人格の一部だったし、それを私を含めた周囲の人は苦笑しつつも愛したのではあったが、自分はああはなりたくないと思ったのである。
目的を問うことをタブー視される価値観を幼いころから叩きこまれてしまうと、たとえその価値観が無意味な状況になっても、人間は慣れた行動パターンをただ機械のように繰り返す。これはときに喜劇であり、ときに悲劇であり、そして、ときに恐怖すら感じさせるものである。ほとんどの価値観を無に帰してしまうような極限状況を想定しやすいせいか、人間のこうした側面をうまくえぐって悲喜劇ホラー(?)を生み出すのは、SFの得意とするところだ。筒井康隆の『霊長類 南へ』(筒井康隆全集7所収、新潮社)や、新井素子の『ひとめあなたに』(角川文庫)などは、とても怖い傑作で、夏の読書にお薦めである。
おっと、趣味に走っている場合ではない。
要するに、目的のない倹約など、怠惰な精神の安定を図るためだけの、いわば“おしゃぶり”のようなものなのではないか、と言いたいのである。
「いや、私は子供のためにおカネを遺すのだ」などという考えかたもあるやもしれないが、私に言わせればひとりよがりもいいところだ。結局、自己満足のためではないか。なにかよんどころのない事情で自活できない子供ならいざ知らず、自分で稼げる子供におカネを遺すのは、罪悪ですらあると思う。そういう人は、おカネを遺すことで、子孫に伝えるべき本当の倹約の精神を遺し損ねてしまうのだ。だから、子孫におカネを遺そうと思って無意味に貯めこんでいる人は、あなたの子供のためにならないので、私にください。
さてさて、この倹約ブームは、いつ終わるのでありましょうや。考えてみれば、夢や目的を持ちにくい世の中になってしまっているから、人々は機械的な倹約に走るのかもしれないな。その結果、不況がひどくなってますます倹約ムードになる。バブル全盛のころ、軽佻浮薄な浪費を煽っていたマスコミは、いまこそ、浪費ではなく、目的のある“消費”を煽るべきなのではないか。世間の雰囲気に媚びて一緒になって踊っているのだったら、マスコミなんて、ただの情報増幅装置だ。自分の出力を入力系で拾い直して、無意味なハウリングを起こしているだけである。常に現状に対して不愉快なノイズを流してこそ、民主主義制度下の自動安定化装置としての価値があるんじゃなかろうか。
[*1]いまは休刊になっている。