迷子から二番目の真実[23]
〜 子供 〜 [94年 9月16日]
私は子供があまり好きではない。いや、はっきり言って、嫌いである。子供好きに悪人はいないなどという言説が世にまかり通っているため、「子供が嫌いだ」と言うと「私は悪人だ」に近く響いてしまい、はなはだ閉口する。論理的には、たとえ子供好きが全員善人であったとしても、それすなわち子供嫌いが全員悪人であることを意味しないのだが、日常の論理は常に机上のそれを超えた地平に茫漠と広がっているのである。
私が子供が嫌いなのは、べつに連中に恨みがあるからではない。主に私の側に原因があるのだ。子供の相手をすると、いや、子供と対峙すると、妙に神経が疲れる。そして、私は神経が疲れるのが嫌いだというだけの話だ。夜な夜なぱこぱことパソコンを叩いているやつが「神経が疲れるのが嫌い」もないものだが、相手が子供だとまったく異質の疲れかたをするのである。連中は“面白すぎる”のがいけないのだ。
幸か不幸か私には配偶者も子供もいないけれど、たまに妹夫婦が娘ふたりを連れてやってくる。幼稚園に通っている姉のほうはやたら元気なやつで、まだよちよち歩きの妹のほうはなにやら内省的で肝が座っているという、好対照の姉妹である。私のようなおたくっぽい人間が身近にいないので珍しいのだろうか、彼女らは妙に私を慕っていて、姉のほうなどたまにセーラームーングッズをくれたりする。以前、セーラーマーズの絵がついた入浴剤(そんなものがあるのだ)をくれたが、こいつめ、なぜ私の好みがわかるのだ。ちなみに、彼女はセーラーヴィーナスが好きだが、私はといえば、最近はセーラーネプチューンに浮気していて、出番の少なかったセーラープルートもそろそろまた出てこないかなどと――
いや、そんなことはどうでもよい。彼女らも、多くの子供の例に漏れず、あの、世にも怖ろしい「なぜ?」「どうして?」を連発するのである(関西弁でだが……)。そういう質問には面倒がらずに答えてやりなさいと教育関係のえらい人がテレビやなんかでよく言っているものだから、こいつらの六倍も十倍も生きてきた大人としては、子供にもわかるようにエレガントに答えてやらなければならないような強迫観念に駆られるのだ。これがまず疲れる。
そして、誰しも経験しているように、子供にわかりやすく何かを説明するというのは、特異な才能なくしては、いくら経験を積んでもできることではないのである。
たとえば、だ。ここにコップがあったとしよう。「これなあに?」と問われた場合、あなたはエレガントに説明ができるであろうか?
「水を飲むためのいれものだよ」などというのは答えになっていない。お茶やジュースを飲むときに、また同じ質問をされるのがオチである。かといって、「液体を飲むための……」などと言っても、今度は“液体”とは何かを説明するのに骨が折れることになる。よしんばそこをクリアしたとしても、本当に液体を“飲む”ときにしか使わないのだろうか、たとえば検尿のときなどはどうだ? いやしかし、飲尿療法というのもあるし……などと、子供の質問と離れて今度は自分が気になりはじめ、ついにはコップの実存論的定義に苦しんだあげく、コップを見て嘔吐したりする羽目になる。あーしんど。
コップなどはまだ初歩の初歩である。とくに私の部屋には、大人にだって説明に苦しむようなわけのわからないものが転がっているから、連中が入ってくると「これなあに?」などと問われはしないかとひやひやするのだ。
コンピュータなんてのは、説明しなくてもよい。最近は、連中だってワープロ風のおもちゃを持っているし、テレビにもしょっちゅう出てくるので、なんとなく何をするためのものかはわかっているらしく、ことさら尋ねてくることはない。なんだか知らないがなんでもできるテレビのようなもので、いい大人がぱちぱちと字を打ち込んでは頭を抱えたり、悪いロボットの透視図が出てきて弱点がわかったり、ドロボーやひとごろしのまえからみたかおとよこからみたかおがでてきてそれをみたケーサツの人がいっせいにうわぎをつかんででかべやをとびだしてはつかまえにいったりできるきかい、だと思っているにちがいない。
問題は周辺機器だ。たとえば、モデムなんてのは、あなたならどう説明します?
「遠くの人とコンピュータでお話するための機械だよ」「えとね、コンピュータの言葉を電話の言葉に直すんだ。で、向こうの人もこれと同じものを持っていて、そこで電話の言葉をコンピュータの言葉に……」「これはこわいこわい機械なんだよ。毎月たくさんの人がこの機械で身を滅ぼしているんだ。いや、じつを言うと、おじさんもこの機械があるばかりに……」
それはともかく。
どのみち、何を説明したって、こちらがいかに何もわかっていないかを痛感し、深く考え込むことになってしまうのである。結局、人間が人間にものを教えるなんてことは、そもそもの不可能事なのではないかとすら思えてくる。「○○するためのものだよ」とか「△△するときに使うんだ」なんてのは、よく考えると、それが“何”であるかの説明にはいっこうになっていないのである。大人にだってわかっちゃいないのだ。大人が知っているのは、ただそれらの使いみちであり、いかにそれらの正体を知らないまま生きてゆくかという、経験的な“やりすごしのノウハウ”にすぎない。
子供のほうだって、そうした大人のあやふやな回答を何度も聞かされるにつれて、ほんとうは大人にもなんにもわかっておらず、わかったような気になるために暫定的なルールを作り上げて安心しているのだということがわかってくる。社会制度は言うにおよばず、言語や物理法則にいたるまで、つまるところそういうものだとわかってくる。そういうものではあるが、とりあえずはルールを覚えてゆかないことには生きられないし、また、身につけたルールは現実に“力”を発揮してしまうので、たいそう役には立つのだ。だから、その仕組みにうすうす気がついた子供は、次第に素朴な「なぜ?」から離れて、“力”の源泉であるルールを意識的に蓄えることを覚えてくる。そうして弁慶のように全身ルールで武装し、ルールの家を建て、ルールの街に住むようになると、いつしか子供は、身のまわりが単なるルールの書き割りだったことを忘れてしまう。そのとき、彼らは大人になるのである。
たしかにそれらのルールは、日常のほとんどの状況下では非常にうまく機能するため、ルールと真理の区別を意識していなくとも、生きてゆくのにまったく支障はない。それはちょうど、回転する宇宙ステーションの中のいる人が、遠心力を重力だと思い込んでいても、まず差し支えはないのに似ている。だが、宇宙ステーションの外から見れば、そこには重力など存在していないのである。
子供というのは、宇宙ステーションの窓の外にふわふわと浮かんでいる小さな岩塊のようなものだ。そばでじっと観察するには、ステーションの回転と逆方向に、回転と同じ速さで走っていなければならない。すると、こちらの身体には遠心力が働かなくなって、その場で浮き上がってしまう。人間の文化を支配している“力”が、じつはすべて暫定的な作りものであることを思い知らされてしまうのだ。だから、子供と対峙すると不安になるのにちがいない。浮き上がったままでは、宇宙ステーションでの生活に支障をきたす。
しかし、宇宙ステーションになんらかの異常が発生したそのときには、遠心力と重力とを区別しているほうが的確に事態に対応できるはずだ。だからこそ、いつの世にも、子供と大人のあわいを生きる年代の若者たちが、ときに破滅的に、ときに創造的に、異変の出来にいちはやく反応してきたのだろう。
……などと考えると、たまには子供の相手をしてやって、無重量状態の訓練をしておかねばとは思うのだが、そういう訓練だったら、おじさんはもう宇宙ステーションの中を走るのはしんどいから、一人乗りの小型艇で外に散歩に出るほうが好きだぞ。艇のエンジンを切り、真っ暗な宇宙空間にひとりぽっかりと浮かんで、眼前をあくせく回っているステーションをしばらく眺めていると、また遠心力だって捨てたもんじゃないと思えてくるのだ。