迷子から二番目の真実[24]

   〜 傘 〜   [94年 9月29日]



 傘というやつは、どうしてこんなにも進歩しないのだろう。
『遠山の金さん』を見ても『ブレードランナー』を見ても、傘だけは材質が変化している程度で、基本的な仕組みはまったく同じである。
 すなわち、棒状の柄に取り付けた皮膜を以て落下してくる雨滴の進路をはばみ、皮膜直下の円錐状遮蔽空間にある使用者への直撃を回避するというメカニズムになっている。いくつかの改良は、機能モード変更時の操作性と、待機モードにおける携帯性能面での向上に偏っており、それも皮膜の畳みかたや柄の長さに関するものに留まっている。モード変更時のエネルギー源は基本的にはすべて人力で、二十世紀後半に登場したやや進んだ機種でさえ、皮膜を畳む際に加えられた人力を弾性材料に蓄え次回使用時に解放するという姑息な方式による工夫が見られるのみである。
 そもそも“傘”という文字自体が、太古の時代からほとんどその形態を変えていないこの道具の保守性を、ゴキブリの化石のように物語っているではないか。
 これほどまでに進歩がないとは、いったいどうしたことか。傘はすでに完成された道具で、もはや人間の頭脳では改良を加えることができないとでもいうのだろうか? とてもそうは思われない。なぜなら傘は、そのレゾン・デートルであるところの“雨滴からの人体の保護”を、いまだうまく実現しえないでいるからである。ちょっと風が強ければたちまちズボンがツートンカラーになってしまう。また、濡れた状態で畳んだ傘を持った使用者が、一平方メートルあたり十人を超えようかという人口密度の閉鎖空間に押し込まれて数十分も輸送されることなどは、その設計思想の埒外にある。最近になってようやく、折り畳み望遠鏡のようなプラスチックのカバーで濡れた傘を包み込んでしまう方式のものが現れたが、これだってどうしていままで誰も商品化しなかったのか不思議なくらい単純なアイディアである。まだまだ進歩の余地はいくらでもあるはずなのだ。
 となると、傘の進歩を疎外している要因が何かあるはずだ。月にロケットが飛ぶ時代に(……ってフレーズ自体がもう死語だよなあ)、雨滴から人体を保護するくらいのことがなぜ完全にできんのだ。人類の叡知とはその程度のものなのか。
 そこで、傘の設計技師ではない私としては、長年の考察をここで一挙公開し、新しい傘の開発の一助としていただこうと思うのである。ひょっとしたら傘の開発者は、ワークステーションの前に座ってCADソフトを操作しているばかりで、傘が使用されるさまざまな日常の場面から疎遠になっているのかもしれないではないか。
 まず、私が疑っているのは、傘というものはもともと雨を避けるためのものではないのではないかということである。日常の日本語では“傘”と言えば一般に雨傘を指し、日光を避けるためのものをとくに“日傘”と呼ぶようになってしまっているため、まるで日傘は雨傘の亜種であり、あとから発明されたもののように思ってしまいがちである。だが、ほんとうにそうなのだろうか?
 傘の歴史を詳しく調べたわけではないが、常識で考えても、使用頻度が高く、それがないと被害の大きいものから発明されるはずだから、傘の起源は文化圏によってちがっているのが自然である。雨の多い土地に住んでいた人々であれば、雨傘を先に発明したであろうし、そういう土地では日傘は雨傘に従属的な地位の道具であっただろう。一方、外出するたび強い日射に悩まされていた人々にとっては、“傘”と言えば日傘のことだったにちがいない。
 たとえば、英語の“umbrella”は、ラテン語の“umbram”から来ており、これは“shade”“shadow”といった意味である。ドイツ語の“Schirm”(傘、遮蔽物)はそれだけで雨傘を指すこともあるが、“Regenschirm”(雨+傘)や“Sonnenschirm”(日+傘)のように、遮蔽物で回避する対象を伴う用法のほうが使用頻度が高いような気がする。つまり、傘=雨傘という結び付きが、日本語ほどには強くないように思うのだ。フランス語の“parapluie”“parasol”も、言葉の作りかたはドイツ語と同じで、“pluie(雨)から防護するもの”“sol(=soleil 太陽)から防護するもの”であるが、“para-”だけ分離するわけにはいかない。必ずいちいち“雨傘”“日傘”と言っているわけである。このあたり、比較言語学だの文化人類学だのを専攻しておられる学生諸君におかれては、ちょっとした研究レポートのネタにいかがなものだろう。本格的にあちこちの言語を調査すれば、案外面白い事実を発見なさるやもしれない。
 あくまで常識と勘だけでものを言っているから与太話と思っていただいてけっこうなのだが、もしも日本の傘の起源と現在われわれが使っている洋傘の起源が異なるものであるならば、日本人は自分たちの土地の気候に合わない道具を、ただ西欧の真似をして使っているだけということになる。番傘と洋傘は、ひょっとするとイルカとサメが似ている程度にしか似ていないのかもしれないのだ。
 以前にも書いたが、機械や道具は使われる状況に組み込まれたときにはじめて完成する。仕様がほぼ同じだからといって、外国のものが日本でそのまま通用するわけではない。パソコンソフトなど、その過ちを何度も繰り返しているいい例だ。傘に関しても、いま一度、文化論的・文明論的な調査と考察に基いた“現代日本に適した傘”というコンセプトの確立から開発に入ってはどうかと思う。なにやら壮大な話になってきたが、いったん進化の袋小路に入ってしまったかに見える道具については、これくらいの抜本的な発想の見直しが必要なのではなかろうか。
 さて、発想の見直しというのであれば、本来いちばんに考えなくてはならないのは、「そもそも、傘なるものは本当に必要なのか?」なのである。たいそうな対策を考える前に、まず問題の実在と対策の必要性自体を疑うのが発想の基本というものだ。
 たとえば、名古屋市内では傘は必要ないのではないかと私は思う。どこへ行くにも、ほとんど地上を歩かずにすむではないか(話半分に聞いてくださいよ)。以前、名古屋の海老の消費量が本当にほかの都市より多いという統計数字を見て驚いたものだけれど(言わずと知れた“えびふりゃあ”と“天むす”のせいらしい)、ひょっとして名古屋の傘の売り上げ高はほかの都市より低いのではあるまいか? 傘メーカは、きっとそういう面白い統計をいっぱい持っているにちがいない。私の推理(っちゅうほどのもんか?)が当たっていたら、ぜひ教えていただきたいものだ。
 実際、都市ひとつとってもさまざまな特徴があるのだ。さすがにまだまだ傘が要らなくなることはないだろうが、その土地・その都市の細かいニーズを反映した独特な傘が、もっともっとあったっていいと思う。目的地まで開きっぱなしの寒村の傘と、開いたり閉じたりを頻繁に繰り返す都会の傘とが同じであるというのは、どう考えても納得がゆかないのである。
 現に、状況によって傘を使い分けているケースはしばしば見られる。たとえば、テレビの事件報道を見ていていつも感心するのだが、救急車や救急病院に備えてある傘は、十中八九、無色透明のビニール傘なのである。多人数で一刻を争う手当てをしながら速やかに担架を運ぶのには、向こうがわが透けて見えるうえ、手元が暗くならないあの傘がいちばん合目的的なのであろう。某球団のファンがスタンドで振り回している傘にヒントを得たのであろうか、それとも逆であろうか……。

 あ、台風がやってきた。また傘の無力を思い知らされることになる。SF風のエネルギーバリアみたいなもので、雨を弾きとばすような装置でもできないものだろうか。
 もっとも、「ほら、肩が濡れるよ……」なんて情景のあるかぎり、余計な新発明はかえって迷惑なのかもしれないが……。



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