迷子から二番目の真実[25]

   〜 辞書 〜   [94年10月13日]



 辞書ばかり引いていたころがあった。
「知らない言葉の意味を調べるのはいいことではないか」などと褒めてくださるかもしれないが、そのころの私の症状はそんななまやさしいものではなかったのである。そう、まさに“症状”という感じで、これはほんとにある種の病気ではあるまいかと自分でも不安になったものだ。それはもう、強迫的に辞書を引いていたのである。
 たとえば、小説を読みはじめる。「おもむろに」という言葉が目にとまる。ああ、なるほど、「おもむろに」であるな、と思う。私はたしかに「おもむろに」という言葉を知っているし、日常使っている。だが、もしかすると、私がこの言葉を知っていると思い込んでいるだけなのではあるまいか。そういえば、いままで「おもむろに」というのはどういう意味か、他人から詳しい説明を受けたこともなければ、辞書を引いたこともない。これはいかん。ここで面倒がって辞書を引かなければ、これからずっとまちがった使いかたをし続けるおそれがある。念のため引いておこう……と広辞苑かなんかを引くのである。
 そこまでなら、まだよい。
……ほほお、やっぱり思ったとおりの意味であったか。「徐に」と書くのであるな。なるほど、「徐行」の“徐”だから、つまり、やっぱり、結局、そういう意味なのだな。だが、待てよ。そもそもこの“徐”なる漢字は厳密にはどういう意味なのだろう。後学のために調べておくに越したことはあるまい……と、今度は漢和辞典を引くのだ。
……おおお、“徐”とはやはり「おもむろに」という意味であったのか(あたりまえだ)。「しずかに」とも書いてあるな。ここに「徐看」なる言葉も書いてある。「静かにながめる」とあるな。はて、しかし、ここなる「しずかに」とは、落ち着いたさまを指すのか、音を発しないさまを指すのか? 「ゆるやかに」ともあるな。してみるとやはり、多少の音は立ててもいいのだろうか。うーむ、気になる……。ここはひとつ、「おもむろに」「しずかに」「ゆるやかに」などの類義語を整理して、その差異をはっきりさせておくいい機会なのではないか。こういうことでもないと(どういうことだというのだ?)、なかなか改めて調べようとはしないものだからな(すぐに調べるくせに)……。
……ふと気がつくと、国語辞典と漢和辞典のあちこちに指を挟んで読み耽っているのである。栞か付箋でも使えばいいものを、ひとつ言葉を引くたびに指の自由が一本一本奪われてゆくものだから、駅前商店街の電器屋で乾電池のつかみ取りでもしているかのような不自然な手つきになってくる。指が足りなくなってくると、いつしか肘や顎まで使いはじめている。次にどの辞書のどの言葉を押さえる羽目になるのかを思うと、わくわくと胸がときめく。むかし流行ったツイスターゲームのようだ。
――ここではたと我に返り、そもそも私は小説を読んでいたのを思い出す。
 いかんいかん。こんなことでは、いつになったら読み終えられるかわかったもんではない。ええと、さっきは、美佐子がおもむろに立ち上がったところまでだったな……。
 五行ほど読み進んだところで、さっきの「おもむろに」がまた気になりはじめる。「そういえば、英語ではなんと表現すればいいのだろうな……」
 十五分後――いつのまにか、英和辞典と英英辞典とシソーラスを広げて、再びツイスターゲームに興じている自分を発見するのだった。ふと傍らを見ると、いったいどんな恐るべき用途に供したのであろうか、英独−独英辞典と英仏−仏英辞典と羅英−英羅辞典が転がっている。
 はっ――。
 あわてて小説に戻って、二ページほど読み進む。
 三十分後――どういうわけか、百科事典の「世界史」と「医学」と「物理・化学」と「文学」と「音楽・演劇」の巻が部屋中に散乱し、その惨状のただ中には、世界大地図のマダガスカルのページを膝で押さえながら理科年表を繰っているひとりの阿呆が座っているのだった。
 こんな時期が一年はあったろうか。ヒマな時代もあったものだ。それでボキャブラリーが強化されたかというと、まったくそんなことはないのである。そうやって細切れに辞書を引いた言葉など、結局のところ自分の血肉にはならないのだ。見たり聞いたりすれば理解できる言葉がいくら増えても、アクティヴに自分の中から湧き出してくる言葉が増えないと、文章というのはうまくならないものなのである。あんまりいいかげんなのも感心しないけれど、言葉の厳密な定義さえ数多く知っていれば日本語がうまくなるなどと思うのは、単語集を丸暗記すれば英語が理解できるようになると思っている中学生と変わらない。なにか外国語を一度でも本気でやった人なら誰もが同意してくださるだろうが、辞書というものは、「辞書なんぞは信用ならん」という境地に達してはじめて本当に役に立ってくるものなのだ。これは母国語に関しても同じである。
 私は、辞書をこまめに引くことが悪いと言っているわけではない。ただ、辞書に書いてあることは、すべてが“後知恵”であり、妥協の産物だということを忘れてはいけないと思うのだ。
 大むかしにサルの群れの前に現れた宇宙人かなにかが、「さあ、ここに書いてあるように言葉を使うのだ」などと、われわれに言語と辞書を与えてくれたわけではないだろう(もしそうだったら、それはそれで面白いが)。科学的な確証はないので、あくまで哲学的考察(?)であるが、私の信じるところによれば、言語は道具や機械の親類である。いや、道具や機械そのものと言っていいかもしれない。必要と状況こそが言語を“分泌”したのであろう。そうしていったん生まれた言葉は、今度は実体としての力を発揮しはじめ、逆に必要や状況を“作り返し”はじめる。これも道具や機械とまったく同じふるまいである。このようにして増殖していったものが、われわれの使っている(あるいは、われわれが使われている)言語なのだろうと思う。言語や機械は、われわれの思惑を超えて“自走”するのが最大の特徴なのだ。辞書の定義を厳密に覚えただけで言葉を身につけたと思い込むのは、機械の仕様書を暗記して操作を身につけたと思い込むのに等しい。
 じつに言葉というのは妙なもので、それ自身をじっと見つめていても、いっこうに正体が見えてこない。ちょっと視線をずらして、その言葉が指さないものにこそ注意を向けたとき、なんとなく意味が浮かび上がってくるものである。極論すれば、言葉の意味というのは、その言葉自身以外のすべてによって決まるのだ。
 仮に真っ白な一枚の紙が全宇宙だったとしよう。そこに黒いインクの染みを一点、ぽつりとつける。それがインクの染みであることが認識されるのは、膨大な白紙の部分があるからこそであり、逆に、インクの染みがなければ、その巨大な白紙は白紙であることの意味を失うのである。なぜなら、全宇宙が均質な白紙なのであれば、それがなんであるのか、認識のしようがないからだ。そうやって、赤いインクで染みをつけ、青いインクで染みをつけ、無数のインクで染みをつけていったものが、われわれの認識上での宇宙である。「青」という言葉は、「赤でも黒でもほかのどの色でもない」、すなわち、それ自身以外のすべてのものとの差異としてしか定義できないのだ。
 高校生のとき、夜中にぼんやりしていて突然上記のようなことを思いついた私は、自分の認識に驚いてしばらく愕然としていたのを憶えている。あとになって、ソシュールという人が同じようなことを言っているのを知り、たいへん意を強くしたものだ。辞書中毒だった馬鹿な日々も無駄ではなかったということだろう。

 アメリカの作家、カート・ヴォネガット・ジュニア(現在はカート・ヴォネガット)の作品に Between Time and Timbuktu というのがある。最初このタイトルを見たときには、はて、時間とアフリカの町になんの関係があるのやら、さっぱりわけがわからなかった。ちょいと辞書を引いてご覧になれば、すぐにピンとくる。このふたつは、辞書では必ず隣り合わせになっているはずである。
 ヴォネガットの意図とはちょっとちがうけれど、辞書を引くとき、私はしばしばこの書名を思い出す。Time Timbuktu のあいだに書いてあることを引くのが、正しい辞書の引きかたなのだ。



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