迷子から二番目の真実[27]

   〜 銃 〜   [94年11月23日]



 美しい……。魂まで吸い込まれそうに美しい。
 なにがって、この世に人殺しの道具ほど美しいものがあろうか。
 露も滴らんばかりの妖光を放つ日本刀。
 弾丸の帯を割れ目にくわえ込み、薬莢を汗のように振り散らしつつ小刻みに痙攣する機関銃。
 大地の隆起を愛撫するがごとく波打つキャタピラに砂塵を巻いては、雄々しく勃起した砲身で誇らしげに行く手を蹂躪する大戦車軍団。
 群青の海面をぬるりと押し上げ、白い飛沫を散らしながら高みに消えるSLBM。
 アフターバーナーの熱い吐息とともに大空に舞い上がり、歓喜の叫びで雲のシーツを引き裂く戦闘機。
 ああ、なまくらな日常の空間を静かな悪意で切り裂いて蠱惑的な質感を放射する、人殺しの道具たちのメタリックな輝きよ!
 こんな美しいものを野放しにしておいてはいけないのである。人間は、彼らの美しさに耐えられるほど強くはない。
 だというのに、最近は下手をするとパソコンより安く銃が手に入るというではないか。知らないぞ、知らないぞ。囮捜査は人権侵害だなんて言ってると知らないぞ。道具を悪用するかどうかは、持つ人の心がけ次第だなんて言ってると知らないぞ。人間がそんなに上等なもんだったら、コンピュータ・ウィルスがあとからあとから出てきたりはしないのじゃないか?

 かくいう私も、銃器の類は大好きだ。なにしろ人殺しの道具なのであるから、それらが実際に使用されるのは、殺すか殺されるかの最もプラグマティックな状況である。したがって、銃器はとことん機能的にできている。人間はむかしから人殺しばかり繰り返してきているものだから、銃には人類の経験と試行錯誤と知能(あえて、叡知とは言わない……)が凝集されているのである。よって、銃器はめちゃくちゃに美しい。用途はともあれ、これほど実用的機能の追求に徹している道具が美しくないはずがないのだ。たしかに銃器にも装飾的な部分はあるにはあるが、それは弾丸を発射して人畜を殺傷するという目的の妨げにならない範囲の装飾であり、そうした厳しい制約下で美を追求する中には、あたかも俳句のような美しささえ醸し出されている。
 この手の美術品については、写真を見たり模造品を愛でては、「ああ、一度でいいから本物を腹立つやつに突きつけて、そいつが小便ちびりながら命乞いするのをけけけと笑い飛ばして一発ぶっぱなしてみたいなあ」などと思いつつもついに実行しないのが、健全な精神のありかたなのである。ひょいひょい簡単に手に入ってしまっては、これを絶対に実行しない自信は私にはない。そりゃあ、人殺しの道具が美しいということを認めたがらない人や、そもそもその美しさに気がつかない人だっているだろうが、世の中そんなに感受性の鈍い人間ばかりではないのだ。
 キャスリン・ビグロー監督の映画に『ブルースチール Blue Steel』(1989) という作品がある。ニューヨークの女性警察官が活躍する、まあ、一種の倒錯ラブ・ストーリーなのであるが、これほどオープニングが美しい映画も稀である。一丁のリボルバーをあたかも視姦するがごとく、舐めるようなカメラアングルで接写してゆくのだ。タイトルどおりに青みを帯びた鋼鉄の肌の上を、鈍く冷たい輝きが妖しく滑ってゆき、泣きたいくらいにセクシーな曲線を照らし出す。小気味よい音を立てて暗い弾倉に弾丸がひとつひとつ装填されてゆくところなどは、この世のものならぬ美しさである。「あ、この監督はワカッテルナ」と、映画館の中で拍手しそうになったものだ。銃器の美しさがわからないという人は、ぜひ一度観ていただきたい。できれば劇場の大画面がお薦めだけれど、ビデオの場合は、部屋を真っ暗にして深夜にご覧になるのがよい。主演のジェイミー・リー・カーティスのファンなので観に行った映画だったが、これ一作でビグロー監督が好きになってしまった。ジェームズ・キャメロン監督の奥さんなのだそうで、なんともすごい才能の夫婦である。
 おっと、話がミーハーしてしまった。
 この映画に出てくる連続殺人鬼に感情移入してしまうのである。
 ふだんは証券取引所で神経を磨り減らす株取引きの激務に就いているこの男、ある夜、眼前で女性警官に射殺されたコンビニ強盗の銃をどさくさに紛れて手に入れる。そこから彼の狂気が解発されてゆくのだ。残念なことに、なぜかもともと多少精神的に問題のある男という描かれかたをしていたのだが(というか、彼が健全であったという描写がないので、強盗の銃を着服する行為が必要以上の異常性を帯びてしまうのだ)、私は、銃器にはまったく健康な精神の持ち主の狂気をも掘り起こすだけの魔力があると確信している。人殺しの道具の美しさがわかるからだ。あれほどフェティッシュに銃を撮れるビグロー監督のことだ、きっと本当は私と同じ考えなのだろう。アメリカという社会のなにかが、ビグロー監督に殺人鬼の男を完全に健全な市民(そんなものはないのだが)として描けなくしたのだろうと私は踏んでいる。この男が最初はきわめてまともであったら、映画はもっともっと面白くなったはずなのだ。それがわからぬ監督だとはとても思えない。
 私は、アメリカの飾らない合理精神を人類の宝のひとつとしてこよなく愛する者である。だが、こと銃に関するかぎり、どうして彼らがこうまで非合理的なのかがよくわからない。真に合理的な人間であれば、人間の精神に潜む抗いがたい非合理性の存在を静かに見つめ、そいつが表に出てきて暴れないように合理的に制御しようとするはずである。つまり、彼らは非合理を手なずけるほどには、十分に合理的ではないのだ。自分の身は自分で護るというのはなるほど崇高な理念ではあるけれど、その理念に目を奪われるばかりに、彼らは自分自身の狂気から自分の身を護ることを忘れているのだ。
……などとエラそうなことを言っている場合ではない。表面的には西欧的合理精神を身につけたような顔をして、キレイキレイの建前を実像だと信じ込もうとしているアジアの島国があるではないか。なにしろこの国には、つい数十年ほど前に狂気を手なずけ損ねた実績があるから、人々は美しいということの恐ろしさをよく知ってはいるはずだが、美しいものを美しくないと信じ込ませるようなまちがった教育をしてきたために、判で押したようにアメリカの轍を踏みそうな気配なのである。
 美と道徳とはまったくの別物である。他人を殺傷することは、戦時以外には一応犯罪だ。悪いことである。しかし、人殺しの道具は掛け値なしに美しい。殺人が悪だからといって、そのための道具も醜いはずだと思い込んではいけないのだ。美しいものは美しい。事物はありのままにクールに捉えなくてはならない。そして、美というものの恐ろしさに耐性がない人間が、いつのまにか銃に引鉄を引かされてしまうのだ。

 このままでは、きっとどえらいことになる。銃というのは男っぽい道具のように思われているが、ダーティー・ハリーやシティー・ハンターが持っているような小型の大砲みたいなものならいざしらず、本来はきわめて女性的な武器である。ちょいと反動を逃すコツを覚えるだけで圧倒的な運動エネルギーを持った金属片で相手の肉体を破壊できるのだ。子供にだって使える。毒殺は女性的だとアガサ・クリスティーは言ったものだけれど、銃殺だって十分女性的である。この調子だと、そこいらの女性が引鉄を引く事件が日本でも必ず起きるにちがいない。覚醒剤だって、たちまち広まったのはほかならぬ主婦のあいだだったではないか。
 ピアノがうるさい。バキューン!
 ゴミの日を守らない。ズキューン!
 亭主が浮気した。ドキューン!
 ああ、物騒な世の中だわ。うちも一丁置いておかないと、安心して夜も眠れないわ。
 ねえ、お隣のご主人は課長代理なのにS&W純正のM10よ。うちが安売りのトカレフなんてくやしいわ。
 あら、あなた護身用にスタンガンなんて持ち歩いてるの? ダっサイわね。アタシなんて、ほら、コレよ。カレシが買ってくれたんダぁ。うふ。

 こうなってからでは、まずあと戻りはできないのである。



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