迷子から二番目の真実[28]

   〜 クリスマス 〜   [94年12月24日]



 クリスマスが好きである。十一月も末になると、喧騒が大嫌いなくせになにやらそわそわしはじめる。
大学がキリスト教系だったために、十二月に入ったとたんに「そろそろクリスマスだなあ」と思う癖がついてしまったのだ。クリスマス前の約四週圏内をキリスト教では降臨節( Advent カトリックでは待降節)と称し、母校ではそのころともなると、図書館の入口両脇にある巨大な樅の木が電飾だらけになるのである。大学紛争当時には切り倒されてバリケードと化したというのだが、そんな昔話が嘘のように、電飾ツリーは毎年荘厳さとしらじらしさを纏ってはアドヴェントを告げるのであった。
 礼拝堂のほうからコーラス部の賛美歌がかすかに聞こえてくる中、夕暮れのだだっ広いキャンパスを横切り白い息を吐きながら家路を急いでいると、「ああ、これから電車に乗って日本に帰るのだ」と思われてくるほど、とってつけたような西洋が住宅地の中にぽつんと出現したような大学だったものだ。
 このエッセイらしきものを愛読してくださっている方であれば(それがいるらしいのだ! ありがとうございます)、私が宗教的な思考とはまったく無縁の人間らしいということに気づいておられるはずである。それはまさにそのとおりで、私の頭脳は、まかりまちがって美しい幻想に囚われかかっているなと少しでも感知するやいなや、これでもかこれでもかと幻想を打ち砕くべく働きはじめる厄介な回路にスイッチが入る。女性に敬遠される最大の原因であろうと自覚してはいるが、直そうとはみじんも思わない。直ってしまったら私でなくなってしまうと思っているのだから、もはや救いがたい。救いがたいから謙虚に神仏に救いを求めるかといえば、まったくそんなことはない。二重に救いがたいのである。
 べつに神仏をバカにしているわけではない。そういうものがないと生きていけない人がいることはよく承知しているし、宗教人の中には私も尊敬する立派な人はいる。ただ私は、仮に神仏の類が実在したとしても、彼らだって彼らの都合があろうから、こんなちっぽけな私という存在が泣こうが笑おうが、いちいちかまっている暇はないだろうと思うのだ。だいたい、御利益だの慈愛だのをホイホイ賜ってくださるような存在だったら、かえってありがたみがなくて信用しがたい。結局、世界という大会社を経営している社長が神であろうが悪魔であろうが超知能の宇宙人であろうが、平社員の腸内細菌のミトコンドリアのような存在である私の知ったことではないのだ。ミトコンドリアはミトコンドリアなりに憂いごとは多いのである。私ごときがなにをしてもしなくても、宇宙はなにごともなく、ただただ流転してゆく。ああ、なんとすがすがしいことであろう!(まあ、これ自体がかなり仏教寄りの考えだと言えないこともないな……)。
 こんなことを言うと、ずいぶんと無気力なけしからんやつだとまたまた誤解されることだろうが、私はそれほど無気力でもないと自己弁護しておこう。自分ではけっこう頑張っているつもりである。せっかくなんの呪いか恵みか意識を持って生まれてきてしまったのだから、生きているうちはせいぜい積極的に、やれることの中からやりたいことをやりまくるしかないではないか。そりゃあ、さまざまな事情で不幸なことにやりたいことがやれなかったりする場合もあるだろう。だが、それで死んでしまってから後悔するかと思ったら、ああら不思議、そのときには後悔する主体である私はきれいさっぱり消滅してしまっているという仕掛けになっている。もっと不幸なのは、そもそもやりたいことがないというケースであって、そういう人は生きていてもしかたがないので、べつに心配するには及ばない。世の中うまくできているものである。
 ところが、こんなやつでも、仏教講話の集会に出かけて行ったこともあるし、耳慣れない賛美歌を口パクしたこともあるし、熱血外人青年伝道士と進化論を闘わせたこともあるし、コーラス部の女の子に誘われて礼拝堂へ『メサイア』を聴きに行き「ハレルヤ・コーラス」であわてて突っ立ったこともある。けっして宗教に無関心なわけではない。だが、結局のところわかったのは、私はどう転んでも宗教的ではない――すなわち、腹の底からどうしようもなく日本人であるということだけだった。なのに、あまりにも日本人的ないい加減さに取り囲まれると、今度は自分の中には、まったく日本人的でない成分が平均以上に含まれているらしいことを痛感するのである。困ったものだ。
 なんだかんだで、弱い頭を絞りたどりついた目下の結論がある。つまるところ、この宇宙には「これさえ守っていれば正解である」という汎用的なルールなど存在せず、あらゆる価値観は相対的なものであるということ。したがって、知性を持った存在に対して、出身天体・目の数(有無)・耳の数・口の数・手足の数・食生活・生殖方法・言語・民族・宗教・思想・性別・血液型・出身校・職業・使っているパソコンなどでカテゴライズして評価・判断を下すのはまったく無意味であり、常にカテゴリー間の差よりも個体差を尊重すべきであること――まあ、これくらいのものだ。ちがっていることを前提にするからこそ、同じものを見つけたときに本当の共感が生まれるのだ。要するに、あらゆる判断は既成のルールを機械的に適用せずに、その都度その都度自分の頭で考えて下しましょう、というアホみたいに単純な哲学しか残らなかったのである。
 これはじつに非効率的な哲学で、効率優先の社会にはまったくなじまないので、べつに他人には強要しないことにしている。既成のルールを機械的に適用するという処世法は、それが非常に効率的であり多くのケースで実際に最も有効であるからこそ生き残ってきているのだ。プログラムを作るときに、他人の作った便利な関数やユーティリティーやプラットフォームやOSを使わず、いちいちすべてを自分で作るのは愚かなことである。しかし、そうした便利な先人の遺産を「まったくバグがない絶対的なもので、どんな場合も有効だ」と思い込んで使用するのも、また同様に愚かなことではなかろうか。やはり、既成品の成り立ちを勉強したり状況依存的な誤動作レポートを読んだり本質的な欠点を知悉したうえで、状況に応じて使い分けてゆくしかないんじゃないかと思うのである。そのためにこそ、人間は歴史を書き残してゆくのだ。
 現在も世界中で多くの人に信仰され、社会的にも容認されているような宗教というのは、言ってみれば、優れたフリーソフトみたいなもんである。大枠のところではけっしてそんなにバカなことは説いていないし、似たようなものがたくさんあるし、多くのケースには非常に有効に適用できる方法論や哲学を含んでいる。ただし、その後の人類の知見や認識の進歩・後退・流転に即したバージョン・アップはされていない。たいてい作者はもう死んでしまっているのである。

 さて、なんだか堅苦しい話になってしまったが、そういうわけでクリスチャンであろうがなかろうが、古の大思想家の生誕記念日くらいのつもりでクリスマスを祝ったってべつにバチは当たらない(当たるかな(笑))であろう。信仰心などかけらもない私のような人間でも、世界中の相当数の人間がなにやらうきうきしたり、ひさびさに家族揃って団欒したり、国を挙げての殺し合いを一時的に休止したりするのを見ると、これはなかなかどうしてたいしたものだと思ってしまうのだ。
 よく「日本のクリスマスは商業主義に毒された虚しいものである」という意見を耳にする。べつにいいじゃないか。それが日本人の祝いかたなのだ。母の日だって外国産なんだし、バレンタインデーだろうが、サン・ジョルディの日(私は本なんてもらったことないぞ〜)だろうが、それによって花屋や菓子屋や本屋が儲かって、経済活動が活発になればよろしいことである。クリスマスなどは非常に汎用的な利用価値があり、いろんな業界が潤う。「4月8日の夜は恋人と甘茶で過ごすのが最高!」とかなんとかいうことにしてしまえば、日本人のことだ、クリスマスと同じように軽薄かつ浅薄に騒ぐに決まっている。大手広告代理店やマスコミにおかれては、「クリスマスにはソフトウェア開発を発注するのがトレンディー!」というキャンペーンをぜひ打っていただきたいものだ。思想がないから、虚構だからといって目くじらを立てるのはまちがっている。現実にクリスマスをきっかけに結ばれたカップルだってあろうし、家族で楽しい時間を過ごせた人もあるだろう。虚の容れものから実が転がり出てくることだって往々にしてあるのだ。虚から得たものでも、主観的な感動そのものは紛れもなく真実のものなのである。
 そういう意味では、クリスマスは完全に日本に根付いたと言える。クリスマス・ソングを聴いていると、つくづくそう思う。私が子供のころは、日本製のクリスマス・ソングなんて妙なものはなかったものである。『サンタが町にやってくる』とか『赤鼻のトナカイ』とか、外国曲に日本語歌詞をつけたものがほとんどだった。原語のままで街にBGMとして流れるものでは、純正の賛美歌や民謡、映画音楽からポピュラーになったもの、モータウン・レコード系アーティストの新作クリスマス曲なんかが定番であった。ジョン・レノンやカーペンターズなど日本で広く固定ファンを掴んでいたアーティストの存在も大きい。
 それがいつしか、ニュー・ミュージック系の曲を中心に、純日本製のものがひとつ現れふたつ現れ、ユーミンや山下達郎の曲などが、一年かぎりのヒットを超えた風物詩になってしまったのである。いまではもう数えるのも馬鹿ばかしいくらい、猫も杓子もクリスマス曲を出す。欧米ではクリスマス・アルバムを出せたら大御所なのであるが、べつに大御所でなくても気軽に出す。よく考えてみれば、十二月下旬にもなって、雨が夜更け過ぎにようやく雪に変わったりするような土地にも、地酒のような“クリスマス・ソング”の定番が出てきたのだ。オーストラリアのサンタだってサーフボードに乗ってやって来たりするではないか。商業主義的であろうが、ミーハーであろうが、これを“根付いた”と言わずしてなんと言おう。『Season's Greetings』(山下達郎/AMCM-4180 MOON records, MMG Inc., 1993)なんぞを聴いていると、その国籍不明のクオリティーの高さに感嘆する。『クリスマス・イブ』の英語版など、日本製クリスマス・ソングの代表として、欧米のクリスマス・アルバムに収録しても遜色ないであろう。

 ジョン・レノンが撃たれて十四回目の冬である。無節操大いにけっこうな日本のクリスマスではあるけれど、無節操が褒め言葉になるのは、あくまで「その都度自分の頭で考える」というスタンスを保ち続けるかぎりにおいてだけだ。それを忘れてしまえば、宗教を事実上放棄してしまった日本人など、ただの烏合の衆である。来年撃たれるのは、私かもしれないし、あなたかもしれない。それくらいのことが“イマジン”できない国民がクリスマスで騒いでいては、ジョン・レノンも草葉の陰で片腹痛いんじゃなかろうか。
 ここはひとつ、恋人とホテルでディナーのイブを大いに楽しんでいただき、部屋の窓から見える街の灯りひとつひとつの下には、ひょっとすると人工中絶問題、脳死患者からの臓器移植問題、死刑廃止問題、いじめ問題、障害者問題、銃器の規制問題、その他諸々の問題に頭を抱えている人がいるかもしれないことをちらっとだけ考えて、食事のあとのお楽しみ[*1]に励んでいただきたい。

 日本人の敬虔なる無節操にこそ幸いあれ――メリー・クリスマス!



[*1]このころ、高橋恵子の梅酒のCMが盛んに流れていたのである。

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