迷子から二番目の真実[29]
〜 家 〜 [95年 1月 9日]
こたつを出さなくなって、もう十数年になる。
子供のころはこたつが大好きだったのだが、だんだんと入らなくなってしまい、団地の部屋も手狭になってきたものだから、いつしか出すのをやめてしまったのである。
最初のころは、冬にこたつが出ていないとなんだか日本人の家庭でないかのようで、そこはかとない風情のなさが部屋にわだかまっていたものだが、布団を敷くのにいちいち片付けたり、しょっちゅう足をぶつけてうめいたりしていたのでは、風情どころではないのである。
ご存じのように、京都の冬は寒い。大雪でも降れば少々寒くても身体が納得するのだろうが、京都の冬と来たら、雪など滅多に降らないくせに腹立たしいほど寒いのだ。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいても、凶悪怪獣の吐く冷凍光線ではないかと思う。誰かが悪意を持って余分に冷やしているとしか思えない、ねちっこい寒さなのである。
ところがよくしたもので、高校、大学、社会人と、主人の経済状態がよくなってくるにつれ加速度的に本が増えてくると、部屋の暖房効率はたいへんよくなる。本が空気を含むから断熱効果があるのだろうか、一度暖めるとなかなか冷めない。だものだから、こたつなど出さなくとも、小さなストーブを点けたり消したりしておれば、十分しのげるのだ。いつしかわが家は、地球にやさしいローテク住宅となっていたのだった。やはり、若いころの読書というのは大切である。いまではエアコンを間歇的に使用するだけで、出がけと帰宅時以外ストーブも点けないほどだ。
それでもやはり、ふと、こたつが恋しくなることがある。
思えば、子供のころ、こたつというのは暖房器具などではなかった。ひとつの宇宙であった。
飽きもせずひねもすビー玉を転がしていたりした。こたつの天板には縁がついている。あの縁を越えるか越えないかくらいの力でうまく転がしてやると、いったん縁で止まってから手元に戻ってくるのである。なんという素朴な遊びであろう。
応用技として“魚雷戦ゲーム”というのがある。同名の商品がむかしあったものだが、これをこたつで行うのだ。マッチ箱や人形などの小物を的としてこたつの縁に立て、パチンコ玉を転がして打ち落とす。単純ではあるが奥の深い、燃える遊びであった。
ミニカーを走らせた。みかんを積み上げた。独楽を回した。中でも、あの“地球ゴマ”というジャイロスコープのおもちゃで遊ぶには、こたつが最適であった。これも天板に微妙な高さの縁がついていることが幸いするのである。
“GIジョー危機一髪の図”というのもよくやった。天板の縁にGIジョーの手をひっかけ、崖から落ちそうになっているところを演出するわけである。ただそれだけの遊びだ。しかし、いかにリアルに“危機一髪感”を出すかというところには、匠の技ともいうべきものが要求される。どういうわけか崖の岩肌は花柄だったりするのだが、それはさておいて、やはり崖の斜面の凹凸にも絵になる状態があるのであり、その芸術的な凹凸を求めて、ああでもないこうでもないとこたつ布団の皺をアレンジするのだ。きっとこの遊びが昂じて映画監督になってしまった同世代の人だって、どこかにいるにちがいない。
中だって面白い。赤外線こたつのランプの下では色がちがって見えるから、こたつにもぐり込んで(文字どおり、中に入るのだ)本を読んでいると、なんの変哲もない絵や写真が、思いもよらない新鮮な色彩(?)を伴って生まれ変わる。
こたつで寝るのは最高だ! 風邪をひくからとよく叱られた。しかし、首までこたつ布団に埋まって座布団を枕に惰眠を貪るほど平和な体験があろうか! これから先、万が一徴兵されるようなことがあったら、私は塹壕の中で、蛭の落ちてくる密林で、泥まみれで匍匐前進する湿地で、「首までこたつに埋もれて眠りたいなあ」と思いながら、血反吐を吐いて銃弾に倒れることであろう。
そんなにこたつが好きなら、こたつを出せばいいではないかとお思いになるかもしれないが、いまさらこたつを出したって、あの平和な時代は二度と戻っては来ないのである。なぜなら、首までこたつに埋もれようにも、大人の身体ではもはやそんなことはできないからだ。反対側から足が出てしまうではないか。子供サイズの身体なら、「こたつを支配している」という実感があるが、大人の身体では、こたつに拘束されているような図になってしまう。
思うに、子供のころの体験の強烈な印象というものは、多くは身体が小さいからこそなのではあるまいか。
大きな箪笥の上や、高いところにある神棚などは、なにやらとてつもなく遠くにあるように思われ、そのあたりには異界が広がっているかのごとく妖気のようなものが漂っていたではないか。懐中電灯を持って押し入れに閉じこもると、そこには異次元の世界が広がっていたではないか。よその家に行ったりした日には、自分の家にはない屋根裏部屋だとか、鴨居のあたりにわけもなく掛かっている能面だとかが、なぜか生まれる前の遠い昔に自分とかかわりがあった特別なものであるような、時間感覚の喪失を体験したものである。きっとあなたにも、こんな体験があるはずだ。団地で育った私ですらこうなのだから、日本建築の旧家で子供時代を過ごした人など、家じゅうが怪異の塊だったはずである。
子供というやつは、「そんなところに登ってはいけない」「そんなところに座っちゃだめだ」としょっちゅう叱られているが、きっと彼らは彼らなりに、そうした“妖気スポット”を求めて、家の中を探検して回っているにちがいない。誰もいないこたつの中も、私にとっては妖気スポットのひとつだったのだ。
ところが、気がついたら大人になっており(決然と大人になる人はあまりいないとは思うが)、家の中の妖気スポットはいつのまにか残らず消え失せていた。「ぼくは明日から大人になりますので、もうお別れです。さようなら」などと、あの懐かしい妖気たちに別れを告げた憶えがないのである。
あの目に見えない妖怪たちの存在が家の中では感じられなくなってしまったのは、やっぱり身体が大きくなってしまったからだと思いたい。そりゃまあ、こっちの心がスレてしまったからなのかもしれないけれど、いまでも街なかではあの妖気を感じることはできるのだ。ビル街のちょっとした空き地や、埋め立て地や、ゴミ捨て場などには、あの言い知れぬ妖気、なにものかのエネルギーのようなものが、強固な存在感を放射しつつ濃密な霧のように澱んでいることがある。あれはこちらの身体に比べてむこうの存在がでかいから、大人にも感じることができるのかもしれない。
そこで、突然提案である。大人があの懐かしい妖気たちと戯れるためのプレイスポットを作ってはどうかと思うのだ。
大人が子供になって遊べるところというのは、すでにあるじゃないかって? あー、あなたのおっしゃってるのは、ある種の趣味の紳士がおしゃぶりをくわえたり、おむつを替えたりしてもらえる類のプレイスポットのことなのでしょうが、そういうのではないのだ。
まず、縮尺をすべて二倍くらいにした日本建築の家屋を建てる。箪笥も二倍、柱も二倍、押し入れも二倍、もちろん、こたつも二倍である。二倍の竈や囲炉裏なんかもあったほうがいい。二倍の般若の面やら、わけのわからない文字がかすれた筆遣いで麗々しく書いてある二倍の額やら、二倍の仏壇、二倍の神棚、二倍の破れた掛け軸、二倍の古いオルガン、二倍の足踏みミシン、二倍の七輪、二倍の火鉢などの小道具(?)も必要だ。軒下には奇妙な模様の二倍の南部鉄風鈴を吊るし、じめじめとした庭には、凶々しい枝ぶりの二倍の盆栽を多数配置して、南天やら熊笹やら牡丹を植える。ところどころ大人の背丈くらいある苔むした岩を転がし、煮しめたような注連縄を意味もなく張る。二倍の塀には二倍の卒塔婆のようなものを何本か立てかけ、庭の隅のちょっと土の色が変わったところには膝の高さくらいの鳥居を建てておく。[*1]
さらに、エキストラを何人か雇い、竿竹売り・鋏砥ぎ・金魚屋・豆腐屋・ラオ屋・植木屋・ロバのパン屋などに扮してもらい、聞いたこともないような方言でなにごとかをつぶやきながら、そこらをうろついてもらうようにする。縁側では、真っ赤な着物を着たおかっぱ頭の童女に、わらべ歌を謡いながら鞠をつかせる。わらべ歌はところどころ意味不明のなにやら残酷な歌詞にし、途中何小節か琉球音階を紛れ込ませた日本音階の新曲をプロに作曲してもらおう。そうだ、この童女には、正気を疑わせるくらいの無邪気で怖い笑い声を立てられるように演技指導をしておかなくては。笑うほかには、ひとことも言葉を発しないように注意しておくのも忘れてはいけない。おっと、調子はずれのお経がどこからともなく聞こえてくるようにもしておかねばなるまい。
ここまでやれば、はなはだ妖しい日本の家ができあがるであろう。入場者は、子供のサイズに縮んだような感覚で、怖ろしくも懐かしい日本の家の怪異が体験できるのだ。
入り口では、男性は半ズボン、女性はブルマの“体育の服”に着替えてもらう。年配者は麻か木綿の和服でもよいであろう。余分の料金を払えば、男性は野球帽か虫取り網、女性はつぎはぎだらけのお手玉か、すぐに首が取れるようにしてある日本人形を持って入ることができる。おっと、もちろんほんものの子供は入場禁止である。三十歳以上でないと入れないことにしよう。
このプレイスポットで数日過ごせば、どんなにスレた大人でも、あの懐かしい妖気にまた会えるにちがいない。日々の喧騒に疲れ果てた大人たちで大繁盛、経営者はたちまち普通の家が建てられる……なんてことになるわきゃないか。
[*1]これを読んだ何人かの方から、藤子不二雄の作品に同じアイディアのものがあるというご指摘をいただいた。どうも私の発想はマンガ的らしい。
※このホームページを準備中の1996年9月23日、藤子・F・不二雄氏が逝去された。『ドラえもん』の連載がはじまったのは、私が小学館の学習雑誌を現役で読んでいたころである。日本が生んだ偉大なSF作家に心より感謝を捧げたい。