迷子から二番目の真実[30]

   〜 ラブレター 〜   [95年 1月25日]



 テレビドラマや小説によると、どうやらこの世にはラブレターというものが存在するらしい。“らしい”というのは、私自身、その実物をフィクションの中でしか見たことがないからである。自分で書いたことはないし、もらったこともない。かといって、友人が「これぞ、世にも珍しいラブレターなるものであーる」などと開陳してくれたこともない。つまるところ、私にとっては幽霊と同じような存在なのだ。
 いくら無感動な私とて異性に恋愛感情を抱いたことがないわけではないのだが(狭量なことに、まだ同性に恋したことはない)、現代において、そうした感情を相手に伝えるために文字というメディアを選ぶのがそんなに一般的だとは、どうしても信じられないのだ。
 私自身は文字人間であって、他のいかなるメディアよりも、自分の考えていること、感じていることをかなりうまく伝えてくれるのは文字であるような気がしている。しかし、どちらかというとこういう人種はもともと少数派であるうえに昨今ますます減少傾向にあるようで、そろそろ世界遺産にでも指定されそうな気配である。その少数派に属する人間にしてからが、恋愛感情といった最も個人的で微妙な感情を表現するのに、文字を用いるほどには表現能力に自信がないのがふつうだと思う。ましてや、話し言葉やら声やらボディーランゲージやら音楽やら絵やら工芸品やらCGやら自動車やら筋肉やら学歴やら家柄やら太腿やら日本銀行券やらによる表現のほうが、文字によるそれよりも得意だというマジョリティーが、好きこのんでラブレターなどという技術的に困難な表現手段に敢然と立ち向かうかどうか、はなはだ疑問なのである。
 男女関係ができあがってしまってからの詳細なレポートは、ヒジョーに具体的なものがいくつか存在する。だが、ラブレターがどのくらい書かれているかについては、大衆雑誌の眉唾な調査は別として、信頼できる調査報告を見たことがない。年齢階層別にぜひ一度調査してみていただきたいものだ。ひょっとすると、みんながみんな「そういうものがあるらしいけど、私は書いたことないなあ」と思っていて、実際にはラブレターという文化はすでに絶滅しているのかもしれないのだ。
 そもそも、恋愛感情を文字で表現するなどという荒技は、普通人には不可能であろうと思われる。私にはとてもそんな自信はない。そんな苦行を強いられるくらいなら、面と向かって口で言うほうがよっぽど楽であろう。なかなか二人きりになれる機会がないのなら、今の世の中、電話という便利なものもあるのだ。
「いや、たどたどしい悪文でもいいから、ラブレターというのは心がこもっておればよいのである」という意見もあろう。なるほど、ラブレターの目的はこちらの恋情を伝えることなのであって、それは文章作成の技能だけに左右されるものでもないだろう。むしろ、たどたどしくとも直情的な文章のほうが“変しい”人に想いが伝わるものなのかもしれない。だが、そう考えると今度は、「わざと取り乱したように書いたほうがいいのではないか」などと、妙な計算が働いてしまうにちがいないのだ。だいたい文章というのは、ただでさえストレートな感情に水をぶっかけて凍結するような作用がある。そんなもので恋情を訴えるなどというのは、氷を擦りあわせて火を点けようとするようなものである。
 こんなふうに考えれば考えるほど、ますますラブレターなるものの実在が疑わしくなってくるのであった。
 フィクションの中では、たしかにラブレターは重要な小道具である。
 多感な年頃には、自分の行動をフィクションに合わせて演出する傾向が多々あるから、マンガや小説の中に感情移入しやすいキャラクターを見つけては、そうしたキャラの思想や行動があたかも自分の中から出てきた必然であるかのように錯覚し、知らずしらず真似をしたりする。必要以上に利己的なガリ勉を演じてみたり、必要以上に傷つきやすい乙女を演じてみたり、必要以上に不良ぶってみたり、必要以上に元気印の溌剌少年少女を演じてみたりするわけである。傍から見ればパターンがまる見えなのだが、なぜか自分の行動だけは人真似ではないと思い込んでいるものなのだ。本当にユニークな一部の才人を除いては、そうした人真似はやがて治癒する。いや、話が逆だ。人真似を疲れずに貫き通し、やがて自分のものにしてしまえる精神力が、立派な才能なのである。
 そういう“人真似期”にある若者がラブレターを書くのは、さほど不自然な行動ではない。なんとなくラブレターを書かなくてはいけないような気になるころというのは、たしかにあるのである。温かい血の通った若者は「みんな書いているらしい」と思われてくるのだ。じつは、その“みんな”というのは、実生活の“みんな”なのではなくて、フィクションの中の“みんな”であったり、社会のほんの一部を普遍の真理であるかのように拡大してみせるマスコミ媒体の中の“みんな”であったりするわけなのだが、なにぶんにも調べようのない私的な事柄だから、ラブレターのひとつも書かないと「自分だけ異常なのではあるまいか」と不安になってくるのである。これは、大人の性生活だって同じことだ。「ほかの人もこんなこと(どんなことだろう……)してるんだろうか?」とは、きっと誰もが思っているはずである。
 そういうわけで、春を思い初めた若者がラブレターなど書いてみたりするのは、ちょっと別の問題だ。あれは一種のフィクションなのである。
 いや、待てよ。別の問題だろうか? そもそも、恋愛感情というもの自体が、多分にフィクションじみたものなのではあるまいか。
 こう考えてみてはどうだろう――恋をしたからラブレターが書きたくなるのではなく、冷静な人間ならとても情報伝達手段として選びそうにない、ラブレターなどというフィクションを書きたくなる異常な心理状態が恋愛なのである、と。
 してみると、このマルチメディア時代(なのだそうだ)に文章という表現形態にあくまでこだわる、たとえば作家のような人種は、しょっちゅうなにかに恋愛をしている人々なのかもしれない。事実に恋し、空想に恋し、物語に恋し――清濁ひっくるめて“世界”に恋しているのかもしれない。あるいは逆に、そうしたものを激しく憎んでいるのかもしれない。どっちも結局同じことだ。
 事実や思想を的確に伝えるだけが目的なのであれば、文章などという線的な情報伝達手段はもはやあきらかに時代遅れである。もっと多くの情報量を迅速に的確に強烈に伝えることのできるメディアはいくらでもある。なのになぜ、ある種の人々はあえて文字を選ぶのか? そこには、プラグマティックな情報伝達などという目的を超えた、いわば恋愛感情にも似た理不尽な、しかし、圧倒的な渇望が働いているとしか思えないのである。
 そして、そうした恋情を原始的な線的テキストから読み取ることができる人々が、書物のよい読者となるのであろう。つまり、作家と読者のあいだにも、恋愛に似た異常な世界が立ち現れているのだ。そこでは、情報伝達などというものは、二の次、三の次となっている。恋人たちがどうでもいいことを飽きずにいつまでも話し合っているような状態だ。作家がラブレターを書くように文字を連ね、読者がラブレターを読むように文字を追うとき、そこにはとんでもない誤読が生じている可能性があるのだが、なあに、誤読だからといってなにを気にすることがあろうか。そこでは、恋愛というフィクションを破壊しないようにさえすれば、すべてが許されるのである。
 なんだか、考えれば考えるほど、文字による表現というのがとてつもなく異常な行為であるように思われてくる。正気の沙汰ではない。だが私は、この異常性にこそ、これからの電子ネットワーク社会・マルチメディア社会で、文字表現が生き残ってゆくための最後の脱出口が潜んでいるような気がしてならないのだ。
 活字文化というものは、ことによると滅びるかもしれない。しかし、“書かれたテキスト”の持つこうした本質的魔力そのものは、そうそう簡単に打ち滅ぼされることはないだろう。いや、むしろ電子メディアという繁殖場所を得て、いままでになかった形で隠されていた力を発揮しはじめるのではないかと期待しているのである。

 文字表現の未来は、マルチメディアとやらのお手軽な啓蒙書(?)なんかにではなく、高校の下駄箱におずおずと置かれたラブレターの中にこそ書いてあるのかもしれないのだ。



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