迷子から二番目の真実[31]

   〜 歴史 〜   [95年 2月 7日]



 ナポレオンはちょっと腹が出ているなあ……などと、授業中に世界史の教科書を漫然と眺めていたとき、とんでもないことに気がついた。高校生のころである。
 ただでさえ世界史の教科書は十二分にぶ厚い。これだって、受験参考書に比べればまだまだ上っ面を撫でただけである。その参考書だって、中央公論『世界の歴史』に比べればペラペラである。いや、『世界の歴史』だって……と考えてゆくと気が遠くなってきたので、とりあえずそちらのほうに考えを進めるのはやめた。
 しかし、やめたからといって歴史はどんどん“溜まって”ゆくのである。このままでは世界史の教科書はじわじわと着実にぶ厚くなって、五十世紀のころともなれば、学生は世界史ばかり勉強しておらねばならなくなってしまうのではなかろうか。周囲の誰も気がついていないらしいのだが、これは世界の教育界を震撼させうるゆゆしき問題である。ははあ、あそこで悠然と板書なんぞしている教師がいやに落ち着いているのは、さては安定雇用が保証されていることを知っておるからであるな。だけど、生徒のほうはたまったもんじゃないぞ! この恐るべき事実をなぜ誰も問題にしないのだ!?
 まあ、そのころには短時間で脳に直接知識をインプットするようなことができるようになっているかもしれないが、そんな技術がついに開発されなかった場合いったいどんなことになるのか、たいへん気になるではないか。
「あー、来週の実力テストだが、大サービスで大まかな範囲だけ言っておこう。二十世紀などというのは、これといったこともないつまらない時代なので、そうだな、せいぜいコンピュータの出現とアポロの月着陸、ロス疑惑と文明堂のカステラくらいを復習しておけばよろしい」
「先生、文学史はどのあたりが出ますか?」
「うーむ、詳しくは教えられないが、ペリー・ローダンと三毛猫ホームズだけはしっかりやっておくように」
 なあんてことになったら、これはたいへんだ。かといって、いかに二十世紀がわれわれにとって重要な時代であっても、五十世紀の人たちには三千年も前の話である。受験には三十六世紀の異星人との戦争ばかりが出題されるため、二十世紀なんて「あー、ここは各自春休みにでも読んでおくように。あー、とくに重要な時代ではないが、百十四年前に冬樹蛉記念大学の被服電子工学部で一問だけ出題されたことがあるから、けっして油断してはならんぞ」程度ですまされてしまうかもしれないのだ。
 こういう想像はあまり愉快ではない。二十世紀を生きてきた人間としては、未来人たちには、「ああ、なんて素敵な時代だったのだろう。タイムマシンが発明されたら(されているかもしれないが)、こんな時代に一度でいいから行ってみたいなあ……」などと、ため息まじりにつぶやいてもらいたいものである。SFの未来人が二十世紀にやってきたりすると、「非人間的な管理社会に喘いでいる自分たちの時代に比べ、原始的ながらも人々が温かく助け合って暮らしているこの時代が好きだ」みたいなことをいけしゃあしゃあと言うけれども、これもそうした願望のあらわれであろう。ひょっとすると遠い未来の学校では、「人類の歴史で最も非人間的な暮らしをしていたのは、二十世紀の人々です」などと教わることになるのかもしれないのだが……。
 それはともかく、教科書はどうなるのかという重大な問題は、まだ片づいたわけではないのだ。
 さきほども述べたように、知識を脳に直接植えつけられるようにでもならないかぎり、やがて人類の歴史は、一人の人間が概略すらも学習しきれなくなるほどに膨れ上がるのは明らかである。個々の人間の能力は、千年、二千年前と比べたってそんなに向上しているとは思われないから、単純に考えれば二千年後の人間だって学習能力はわれわれとほとんど同じはずだ。ことによると、現生のホモ・サピエンスはさらに優れた種にとって代わられているかもしれないけれど、それほど急激な進化が向こう二千年のあいだに起こるかどうかはまったくの未知数である。残るは“人為的進化”という方法だが、これが非常に危険な思想と結びつきがちなことは、それこそ歴史が教えている(そういう思想が“危険”でもなんでもなくなることはありうるにしても……)。さあ、困ったぞ。
「コンピュータがもっと活用されるようになれば、そんな問題は解決するよ」という意見もあるかもしれない。そうだろうか? 情報の蓄積や検索がいくら手軽にできるようになったとて、一人の人間が記憶していられることが増えるわけではない。「調べようと思えば調べられること」と「知っていること」というのは、似ているようでちがうのだ。まず問題意識を持たなければ、「調べよう」とすらも思いようがないではないか。手軽に調べられる手段はあっても、そもそも調べようとはゆめゆめ思わないのであれば、そんな情報はないのと同じである。早い話が、コンピュータの力を借りたところで、人類は膨大な“積ん読の山”を抱えるだけになってしまうのかもしれないのだ。
 私が習った歴史の先生は、誰ひとりとしてこの問題に触れたことがない。冗談まじりに友人に訊いてみても、「ヒマなやっちゃな」という目で見られるだけである。誰か現実的でエレガントな解決法をお持ちの方がいらしたら、ぜひお伺いしたい。本気で考えはじめると、これは歴史学や教育学だけの問題ではなくて、情報システム学や社会学、哲学や文化人類学などなどからの非常に学際的なアプローチを必要とする重要問題であるはずだ。そう思いませんか? もっと騒がれてもいいのになあ……。
 そこで突然、あまり発表したくない悲観的な説を思いついた。
「宇宙人はなぜやってこないのか?」という古典的な問題はご存じであろう。その回答のひとつに、「技術文明というのは、宇宙に進出できるほどまでに進むと、必然的に自身を滅ぼしてしまう性質のものだからだ」というのがある。反論のしようがないばかりか、人類の歴史を見わたしてみても間接的な支持材料には事欠かないという、妙に説得力のある仮説である。
 未来の教科書はどうなるのか問題に対する冬樹蛉仮説は、こいつの応用なのだ。すなわち、「自分たちの歴史を学習しきれなくなった種は滅亡する」というものである。だから、教科書がぶ厚くなりすぎて困ることはけっしてない、という都合のよい説なのだ。都合のよい代わりに、この説が証明されてしまったとしても、「ほーら、やっぱりそうだった」ということができないのだから、主張したってなんの得もない。天才というのは報われないものなのである。
 こういう画期的な説を前にすれば、人は必ずや「ではそれはいつごろなのか?」と問うであろう(問うてよね)。
 それは案外近いのではないかと私は思っている。それが証拠に、私自身、人類の歴史を概略だけでもきちんと身に付けているかどうかきわめてあやしいのだ。こういう人間がまがりなりにも社会で働いて給料を貰っているのであるからして、これを人類の危機と言わずしてなんと言おう。でも、歴史を知らなくてパソコン通信の書き込みに困ったことはあっても、会社で困ったことなど一度だってない。よその国ならいざ知らず、どうやらこの国では歴史なんて知らなくたって暮らしてゆけるらしいのである。むしろ知らないほうが重宝がられる局面が多いような気さえする。きっと、歴史の教科書がぶ厚くなりすぎたからにちがいない。そろそろ人類の(あるいは“日本の”なのかもしれないが)黄昏にさしかかっているのかもしれない。
 終末が近づいてくると、決まって“偽預言者”というやつが現れるのがドラマやなんかの常である。そうそう、『オーメン』の獣の数字“666”の“6”のひとつが象徴しているやつである。6のくせにろくでもないのだ……なんてくだらないことを言っているうちに、ひょっとしてもう現れているんじゃなかろうか?
 偽預言者かもしれないので気をつけたほうがいい輩の特徴のひとつに、“やたらと「○○はなかった」と吹聴する”というのがある。
 といっても、「チェルノブイリ原発事故はなかった」とか「天安門事件はなかった」とか、誰の記憶にも新しいことを言いふらすほど偽預言者というのはバカではない。当事者以外はそろそろ忘れかけているであろうなあという頃合を見計らって、「じつはあれはなかったのだ」などと言いはじめるのである。人々の忘却につけこみ歴史を好き勝手に塗り変えては、人類の滅亡を早めるのが目的の悪魔の手先どもだ。人間の記憶というのはいかに強固に見えても、そういう輩につけこまれる程度の哀しいものでしかない。忘却とは忘れ去ることなのだ。
「おまえは歴史の専門家でもないくせにエラそうなことを言うが、ほんとうに“なかった”ことだってあるかもしれないじゃないか」って? ふむふむ。たしかに私は歴史の専門家ではない。どちらかというと歴史に疎いほうかもしれない。でも、論理的に考れば誰にでもわかることがある。
 たとえば、「縄文時代に稲作文化があった」という主張をすることは、その痕跡を示す遺跡でも出れば比較的簡単にできる。もちろん“簡単に”とはいっても、専門家にすれば、という意味である。「じつは弥生時代にセーラーマーキュリーがいた!」などというとんでもない仮説であっても、水星の天文記号が描かれた変身スティックが実際に発掘されておるのであれば、その説を主張すること自体にはなにもおかしなところはない。「あった」ということに論理的裏付けを与えるのは、運と能力と労力さえあれば、けっして本質的に困難なことではないのである。シャンポリオン一人おればよいことだ。
 だが、「なかった」となると話はべつだ。ちょっと考えてみるだけでも、「ない」「なかった」ということを“証明”するというのは、並み大抵のことではないのがわかる。
 一昨年のことだったか、数学の苦手な私でも知っている、例の「フェルマの大定理(フェルマの予想)」が解決されたとかされないとかが新聞紙上を賑わせたことがあった。たしか「“Xのn乗プラスYのn乗イコールZのn乗”を満たす整数のX,Y,Zの組は、nが3以上の場合には存在しない。ただし、X,Y,Zが全部ゼロなんてのはナシね」とかいう数学上の“予想”で、解決すると賞金が貰えるとかいうやつである(金の話になると憶えているのだ)。たかがこれだけのことの白黒をつけるために、世界中の頭のいい人がああでもないこうでもない、でけた、やっぱりあかんかったと言い続けて三百五十六年、「今度こそでけた!」と騒がれていたものだからよくよくあちこちの報道を調べてみると、「これが証明されたらフェルマの予想が正しいことも証明できたことになる“谷山−ベイユの予想”とやらに、きわめて信頼のおける部分的解決を与えた」という、なにやらややこしいことであった。もちろん私には証明の内容はさっぱりわからないのだが、この決定打かと思われたワイルズという人の証明にすら、その後不備が発見されたということなのである[*1]。ことほどさように、「ない」というのを証明するのは難しいのだ。
 数学と歴史を一緒にするなと言われそうだ。まことにもっともなご意見である。論理だけで通る数学の世界においてすらこうなのだから、どんな知られざる事実が眠っているかわからない歴史において、「○○はなかった」なんてことを証明するのは、とてつもない難事業にちがいない。よしんばそういうことが可能であったにしても、それは何人もの専門家の血の滲むようなリサーチと思索をもってしてはじめて成し遂げられるような研究であるだろう。よって、そこいらの歴史おたくの思いつき程度の研究で「○○はなかった」なんてことが安易に言えるわけがないのである。こんなことは歴史や論理学の心得がなくたって、健全な常識を持ち合わせておれば、人跡未踏の秘境に住むナントカ族の老婆にだってたちどころにわかることだろう。
 したがって、「○○はなかった」なんてことを安易に主張する輩は、専門家であるか否かを問わず、十中八九、ただ名前が売りたいか、金が欲しいか、そういうことが「あった」ことになっているのでは都合が悪い思想に立った確信犯かのいずれかだと思ってまちがいない。それが出版されたのであれば、出版社もそのいずれかなのであろう。
 最近の具体例を挙げたほうが説得力が増すだろうとは思ったのだが、記憶力に乏しいせいか(だから歴史が苦手なのだ)どうも思い出せない。まあ、いいか。とにかく、歴史の教科書もかなりぶ厚くなってきたから、用心するに越したことはない。そうした偽預言者が「消防署の“ほう”から来ました」などと消火器を売りに来ても、くれぐれも騙されないようにご注意いただきたい。

 それにしても、「冬樹蛉仮説は正しかった!」というのを人類を滅ぼさずに証明する方法はないものかなあ……。
 おお、いい方法があったぞ!
 ああ、しかし残念だ。ここに書き込むには、もう余白がない……。



[*1]その後、ワイルズが手直しした証明はプリンストン大学に承認され、フェルマの大定理は歴史上の解決をみた。

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