迷子から二番目の真実[32]
〜 眼鏡 〜 [95年 3月 6日]
眼鏡をかけていると、なんとはなしに頭が良さそうに見える。
あくまでそのように見えるというだけの話で、別段、頭の良さと目の良さにはなんの相関関係もないはずである。なるほど勉強ばかりしておれば目が悪くなる可能性は高いにちがいないが、ちょっと意地悪な見かたをすれば、頭が悪いからこそ眼が悪くなるほど勉強しなければならなかったのかもしれないのだ。
それでも人間、相当第一印象に左右されるところがある。やっぱり初対面の人が繊細そうな縁なし眼鏡やなんかをかけていると、「おお、この人は頭が良さそうだ」と勝手に畏れ入ってしまいがちである。困ったことだ。
こちらが畏れ入るのはまだいいのだが、どうやら同じことを相手に思われていることがあるらしい。白状すると、私はチタンフレームの度の強い眼鏡をかけていて、いまどき髪を七三に分けており、外見に似合わぬ妙にドスの利いた声をしている。これが丸顔でユーモラスに太ってでもおればまだましだが、現実はその逆である。
したがって、私の風貌は初対面の人にはかなり警戒心を抱かせるものなのだそうだ。なるほど、鏡を見るとかなり怪しいやつが映っている。夜道では出くわしたくないタイプだ。いかにも冷たそうで、愛嬌のかけらもないうえ、自分で言うのもなんだが、どちらかというと頭が良さそうに見えてしまう。白衣でも着せれば、夜な夜な暗い研究室で試験管を振っては世界征服を企み改造人間を造っていてもおかしくない。実際は、パジャマの上にどてらを着込んで、夜な夜な暗い部屋でパソコンを叩いては、チャットをしているか駄文を書き散らしているという、人畜無害のじつに愛すべき人間なのである。
実際以上に頭が良く見えてしまうのは、本人にとってはつらいのだ。こっちだって好きで眼鏡をかけているわけでも、神経質そうで貧相な顔をしているわけでもない。若いころ、同年輩の不良少年諸君が、「人を外見で判断するな」などとよく息巻いていたものだが、まったくもって同感である。
やはり私の美意識からすると、外見はボンクラそうで、そのじつものすごく頭がいいという人にかっこよさを感じる。刑事コロンボなんてのは、ちょっとあざとすぎるような気もするが、その典型だろう。コロンボだって、よくよく思い返すとずいぶんドジを踏んでいるし、ほとんど運がよかっただけなんて作品もあるから、あれで一分の隙もない外見だったりしたら、犯人には警戒されるわ、聞き込み相手には恐れられるわで、とても警部(英語では警部補になってますけどね)にまでは昇進できなかったにちがいない。とはいうものの、コロンボはたしかにかなり頭もよいからかっこいいのであって、私が下手に真似でもしようものなら、ほんとうにただのボンクラになってしまう可能性が大きい。やはり、ふつうの人はふつうにしているのが似合っているのだ。
一度だけコンタクトレンズにしてみたことがある。当時はチタンフレームもずっと高かったし、なにより眼鏡が重くて閉口したからだ。ところが、これはぜんぜん続かなかった。あまりにも面倒なのである。コンタクトレンズを愛用している人は、「あのくらいのなにが面倒なのか」とおっしゃるかもしれないが、人一倍ものぐさな私には、あのようなメンテナンスは苦行以外のなにものでもない。
それに、眼鏡をかけていないと、自分の顔があまりにもまぬけに見えてしようがない。眼鏡顔を見慣れているからということもあるが、どうにもメリハリのない自分の素顔を見ていると、なにか重大な欠落があるような気がする。象に鼻がないかのような感じなのである。結局、コンタクトレンズはすぐにやめてしまった。あのまぬけ面をさらして歩くくらいなら、まだ重い眼鏡をかけているほうがましだ。
私がいまかけている眼鏡フレームは、近所の眼鏡屋が自分で設計して発注したというものである。おしゃれにはあまり興味がないので、「とにかく軽くて丈夫でシンプルなやつはないか」と尋ねたところ、私といくつもちがわない若い眼鏡屋は、なにやら共犯者めいた嬉しそうな顔をして、店の奥からこいつを出してきたのだ。
「私も最近の眼鏡にはどうも不満でしてね。おしゃれですけど、すぐポキッといきそうでしょ?」などとこの男、眼鏡屋にあるまじきことを言う。「じつはこれは、軽くて丈夫でシンプルにと、私が設計して作らせたんです。私がいまかけてるやつもそうです」
嬉々として語る眼鏡屋の瞳に異様な光が宿っている。この男、“眼鏡おたく”だな、と私は直感的に察知した。好きなことを商売にできるとは、しあわせなやつだ。結局、私は彼のこだわりと腕を全面的に信用した。なにやら通じ合うものを感じたのだ。
彼の腕はたしかだった。その証拠に、この眼鏡は私がいままでかけたものの中で最も長もちしており、型も崩れていない。ただし、その後しばらくして、その店は潰れてしまったのだが……。そりゃあ、こんな丈夫な眼鏡を売っておれば、潰れもしますわな。おたくは商売には向かないのだ。
彼はまだどこかで眼鏡屋を続けているだろうか[*1]。惜しい腕だ。ゴルゴ13が“銃器おたく”風の老職人に特殊な銃を作らせたり、ブラック・ジャックが刀鍛冶の名匠にメスを砥がせたりする話があったが、あの気持ちはよくわかる。われらが眼鏡屋氏にとって不幸だったのは、彼の真価を見抜いた私のような客は、スイス銀行に巨額の匿名口座を持っていたりはしないことなのであった。
というわけで、おたく眼鏡屋氏の手になるフレームはまだまだ健在だ。そろそろレンズだけは替えようと思っているが、もうしばらくがんばってもらおう。[*2]眼鏡で補正が不可能になるほど目が悪くなればコンタクトレンズも考えるけれど、近視もほとんど進行しない歳になったし、たぶん一生眼鏡のお世話になることだろう。
ところで、べつにコンタクトレンズの愛用者に恨みはないのだけれど、せっかく眼鏡が似合う顔をしているのにコンタクトにしてしまう人がいるのは残念なことである。とくに女性にはそういう人が多いようだ。
女性の多くが誤解しているらしいので、この際はっきり書いておきたい。眼鏡をかけた女性を好む男性というのは、けっこういるんである。あー、ひとごとのようなふりはやめよう。私がそうである。もちろん、人によって似合う似合わないはあるけれど、どうも女性の側には「眼鏡はとにかく不利だ」という思い込みがあるようで、じつにもったいない。中には、せっかく眼鏡が似合う顔立ちなのに、どういうわけかコンタクトレンズにしてまぬけ面(失礼!)をさらしている女性すらいる。
これはいったいなぜなのか?
やはり、冒頭に書いた「なんとはなしに頭が良さそうに見える」というのがいけないらしい。女性だろうが男性だろうがそのほかだろうが、頭が悪いよりはいいに越したことがないと思うのだが、「女はバカでもいい」、「女はバカがいい」という社会通念はたしかにあるのだ。嘆かわしいことである。そうした男社会の価値観を女性が勝手に内面化しているため(まあ、よってたかってそういう教育をされるのだから気の毒であるが)、眼鏡を厭がる女性が多いのであろう。
一応は世界の先進国とやらに数えられる国の国民の半分が「バカでいい」はずがない。日本を国連常任理事国にしたくてしかたがないらしい方々は、まず議事堂内の男女構成比を国民のそれと同じにしてから、そういう議論をはじめるがよろしい。「しかし、女性議員には現にろくなのがいないではないか」などとのたまう男性政治家を見たことがあるが、仮に男性がまわりから「バカでいい」と思われている社会でその御仁が議員にまでなれたかどうかを考えれば、私ならとてもそんなアホなことは言えない。世の男性諸氏は、自分と同じ仕事をしている女性は、十中八九、自分より頭がいいくらいに思っておいてまちがいないと思う。
それはともかく、こういう社会が事実存在しているのだから、きれいごとを言っていてもはじまらない。かといって、大上段にふりかぶって社会を変えてやろうなどという柄でもないし、そんな能力もない。でも、小市民には小市民らしく、あっけらかんと、ねちねちと、こそこそと、しかし着実にじわじわと社会を変えてゆけるゲリラ戦法に訴えるという方法はあるのだ。ありがたいことに、ネットワーク社会はけっこう小市民にも暗躍(?)の余地があるらしいのである。
「バカでいい」と思われている女性たちのほうでもいろいろな抵抗のしかたをしているようで、これは見ていてなかなか痛快だ。
まず、しんどいだろうなあと思うのは、徹底的に理論武装して正面から闘っている女性たちである。これができる女性はそう多くはない。たいへんな知力と体力と精神力を必要とするはずである。しかも、今の状態が唯一正しくあたりまえだと思っているような知的に怠惰な人々には、彼女らがいくら理論武装しようが、そもそもその理論を理解する能力がないのだ。さぞ虚しかろうなと思ってしまう。そもそも理解できないものには賛成も反対もしようがないから、多くの場合、そうした知的に怠惰な人々は感情的な反応を示すだけという結果になる。そんなことが頭脳明晰な彼女らにわからないはずがないのであるが、それでも彼女らは闘ってしまうらしいのだ。そして、最先鋒で闘ってきたこうした女性たちがいたからこそ、むかしに比べればまだましな、いまの社会があるのである。私はこういう女性たちを心から尊敬している。理論はあくまで理論だから、自分でおかしいと思えば批判はするけれど、単なる女権帝国主義者でない真摯なフェミニストは、とりあえず声援したくなる。彼女らは、無用な役割意識に苦しむ男性たちをも解放しうるポテンシャルを持っているからである。
でもまあ、男社会の中で男の武器と闘いかたをわがものにし得たこういう女性は、いわばエリートなのであり、大部分の女性には直接の参考にはならないだろうと思うのだ。男性の大部分が小市民であるように、女性の大部分も、やっぱり小市民なのである。おのずとちがった闘いかたをすることになる。
“闘いかた”と言ったが、最近の若い女性を見ていると、“闘っている”という意識すらないことが多いようだ。「男の人がやってるんだから、あたしがやってなにが悪いのよ」というノリで、じつにのびのびと自然にやりたいことをやっているように見える。
これはすごいことだ。もちろん、過去に闘った、あるいは現在闘っている女性たちの成果として、フェミニズムを無意識のうちに体現するようなこうした層が出てきたのではあろうが、まったく根拠のない陋習と既得権にぬくぬくとしてきた男性にとっては、こんなに恐ろしい戦法はないにちがいない。
「君ねえ、やっぱり女性は女性らしく、こういう場合は……」
「あら、あたしがやりたいって言ってるんだからいいじゃない。なんか法律にでも触れるわけ? 誰か困るわけ?」
「べ、べつにそういうわけじゃないが、世の中むかしから――」
「あたしバカだから、理屈はよくわからないのよ。じゃね、おじさん」
じつに痛快である。これに似た会話が日本のあちこちで交わされているんじゃないかと思う。もっとやれ、もっとやれー!
「あたしバカだから」というのは、ちょっと蓮っ葉な女性がよく使うのを耳にするが、男社会が女性に強要してきた役割を逆手に取っている秀逸なフレーズである。これがあっけらかんと言える女性は、言葉とは裏腹に、きわめて頭が良いのだろう。「このこしゃくな小娘、なかなかどうしてバカではないな」とこのおじさんが思ったとしても、彼はそれを口に出すことはできないのだ。なぜなら、この頭の古いおじさんがそれを認めてしまうと、“男と同じように頭の良い”この女性がどうしてやりたいことをやってはいけないのか、彼自身にもわからなくなってしまうからである。
「あたしバカだから」を連発する女性がこんなことを言語化して意識しているかどうかはわからないが、少なくとも彼女はこういう構造を見抜いて意識的に武器にするほどには頭が良い。
そもそも、相手を説得しようとか、改心させようとかいうのは、まだ相手とわかりあえるかもしれない、少なくとも妥協しあっていけるかもしれないという希望があるからこそできることである。そういう意味で、男社会の価値観と正面から闘ってしまう女性は、まだ闘う相手を人間扱いしているといえるのだ。
ところが、「あたしバカだから」と開き直るギャルは、頭の古いおじさんを闘う価値のある相手だとすら思っていない。きっと、相手にするだけ時間の無駄だと思っているのであろう。かかわりあいになると腹が立つし、かといって、相手のわかる言葉で根気強く説得するなんて手間を、なんでわざわざこちらがとってやる必要があるものか。こっちは好きにやるだけよ……とまあ、要するに、彼女らは説得の価値すらない敵を見限ってしまっているのだ!
どうせおじさんたちがどう文句を言おうが、彼女らを意のままにする力はまったくないのだし、放っておけばたいてい彼らは先に死ぬのである。死に際になってはじめて、かようなおじさんたちは、家庭に押し込められた女性たちの奴隷労働に甘えてきた老人福祉の無策を思い知ることになるのだろう。“愛”の美名のもとにいつまでもいいようにこき使われているほど、女性たちはバカじゃない。これから先、どう考えたって、このおじさんたちに勝ち目はないのである。さらに頼もしいことに、彼女らはコンピュータという史上最強の井戸端会議装置を手に入れてしまったのだ。
なあんにも考えずに好き勝手をやっているキャピキャピギャルたちは、意識していないがゆえに、日本の社会を変えうるものすごい力を持っているのかもしれない。私は個人的にすごく期待している。まあ、もう少し意識的にものを考えてくれてもいいんじゃないかと思うときはあるにしても……。
待てよ。ひょっとすると、眼鏡をやめてコンタクトレンズにしてしまう女性たちは、なにも男に好かれようなどと思ってやっているのではないんじゃなかろうか。いかにも頭の良さそうな風貌をしていると石頭どもの無用な警戒心を煽るので、ことさら彼らを刺激しないように変装をしているのじゃあるまいか? 「あ、雷だわ。ヘアピンをはずしておこう」というのと同じような感覚で、「あ、マッチョだわ。眼鏡をはずしておこう」などと、男社会の価値観に凝り固まった連中をいいようにいなしているのかもしれない。
いかんいかん、女性がみんな刑事コロンボに見えてきた。
世のマッチョ諸兄よ、このコロンボは怖いですぞ。なにしろ、あなたが定年退職した次の朝、さあ、これから第二の人生をゆっくりと……などと思っていると、足腰の弱ったあなたを前に颯爽とあなたの非を暴いては、逮捕状ならぬ離婚届を突きつけるかもしれないのだ。
[*1]その後の情報によると、眼鏡屋を続けているらしい。
[*2]その後、とうとうその眼鏡は壊れてしまった。ご苦労さま。