迷子から二番目の真実[33]

   〜 エリート 〜   [95年 4月19日]



 今日は、よく集まってくれた。
 諸君のようなエリートが私の呼びかけにまんまとひっかかって――もとへ、私の呼びかけに真実の輝きを見出して集ってくれたことを伯藝院圓蟲聖大居士[*1]に感謝する。
 私、冬樹蛉は、十年に及ぶサラリーマン生活の苦行を通じ、先般、ついに解脱した聖者である。そしてこのたび、この悟りを独り占めするのはもったいないと考え、宗教法人インコ真理教[*2]を設立、世の迷える人々を救うためこの身を捧げることにした。あー、似たような名前の教団があるやに聞いているが、あくまで偶然の一致である。私がインコが好きだからインコ真理教なのであって、他意はない。ゆめゆめ疑うことのないように。
 さて、諸君はエリートである。学業成績優秀な諸君にあえて説明するまでもないだろうが、エリートとは“選ばれた者”という意味であることを想起してほしい。選ばれた者がいるということは、どこかに選んだやつと選んだ基準が存在しているはずである。そのふたつがなければ、そもそもエリートなるものは存在しえない。
 なぜこのような自明のことを改めて説明しているかというと、意外と諸君はそのことを意識していない場合が多いからである。諸君は、なまじ能力があるがために、まず、たいていの基準をクリアしてしまうので、“選ばれ慣れている”のが常である。よって、自分が選ばれないような選定基準が世に存在した場合、それは基準のほうがまちがっているか、そのような基準にはまったく価値がないと考えてしまいがちなのである。
 幸いにも、わが国の教育制度および企業の採用基準は、諸君にとってまことに都合よく機能するようにできている。諸君の知能をもってすれば、このようなゲームの勝者となることは、さほどの労苦を伴うものではなかったであろう。
 だが、ゲームはあくまでゲームであって、ほかのすべてのゲームと同じように、このゲームにも終わりがある。鋭い諸君のことであるから、学校を卒業した時点で――ひょっとすると大学に入学した時点で、ゲームはいったん終わったのだと察知したことであろう。諸君にとって苛立たしいことに、実社会というやつは、必ずしも諸君がそれまで慣れ親しんだ選定基準で動いているわけではない。悪が栄えることもあるし、無能なやつが大きな顔をしていることだってままある。正論が通らぬことなど日常茶飯事であろう。民主主義だって、この国ではまだまだ借りものの概念にすぎない。
 また、ろくな教育を受けていないと諸君が考える輩が、どういうわけか不条理にも神に愛され、諸君をはるかに凌ぐ独創的な才能を開花させている場面にも多々遭遇することであろう。諸君の中でも謙虚な者は、自分が恵まれているのは、あくまで与えられた課題の遂行能力、すでに立てられた問題の解決能力であって、必ずしも真の“才能”などではないことにうすうす感づいているかもしれない。そのまぎれもない真実が諸君にはいっそう苛立たしく、そのような怪現象を真実と認めえぬ脆弱な自我しか持たぬ者すらいることであろう。
 諸君は学校を出るまではたしかにエリートであったが、実社会の(諸君には不条理に思える)選定基準に照らせば、諸君が“選ばれない”などというありうべからざる事態は、ざらにありうるのである。
 おそらく、諸君は一度はそういう経験をしてここへ来たのであろう。社会に出てみて「こんなはずはない」と諸君は思ったことであろう。残念ながら、そして、愉快なことに、そんなはずがあるところが実社会だ、けけけけけ。選ばれて選ばれて選ばれ続けた目的が、じつは“最もありふれた人間になること”だったのに気がついた諸君のショックはいかばかりであったろうか。
 そこで自分たちが慣れ親しんできた基準があくまでフィクションのひとつにすぎなかったことに気がついた者たち、あるいは、とっくに気がついていた者たちは、今日こうして集まっているはずがない。そういう人々は、もとより一度もエリートと呼ばれたことのない大部分の人々と共に、なんとか社会に溶け込んでいることであろう。今日、ここにこうして集まっている諸君は、“自分が選ばれる”ゲームをいつまでも続けたいと夢想する人間がほとんどなのだ。私の商売敵である新興宗教の多くが、本来憎むべき俗世における日本の教育制度を延長したような階級体系を、なぜか無反省に、いや、むしろ意識的に模倣しているのは、故あることであろう。終わったはずの“あのゲーム”を続けているかぎり、諸君は死ぬまで“選ばれた者”であり続けることができるのだ。諸君は、自分が常に選ばれていた“あのゲーム”が懐かしくてしかたがないのだ。胸に手を当ててみずからに問うてみるがよい。
 よろしい。では、なぜ諸君は、実社会を形成しているいくつものフィクションに対抗しうる力を持った“君たちのフィクション”を、みずから作り出そうとしないのだ? 私がインコ真理教などというあやしげなフィクションを提供してやろうと信徒を募るや、その賢そうなまぬけ面を提げてこうしていとも簡単に集まってくるのだ? 「もっとフィクションをくれ、もっとフィクションをくれ! もっと幻想をくれ、もっと幻想をくれ!」と、意地汚くフィクションや幻想を消費しようとばかりするのだ!?
 私はけっして、商売敵であるところの他の教祖たちを非難しているのではない。みずから宗教を立てるほどの人物は、かなり魅力的なフィクションを提供する能力に優れており、それなりに独創的な者も多い。それは私も認めるところである。問題は、そうした人物のまわりにホイホイと集まってくる者たちが、やることなすこと、なにかにつけて著しく独創性を欠いていることである。どこかの小説やマンガで読み飽きたような、どこかの映画やビデオで観たような陳腐なことを、課題遂行能力にだけは優れた頭脳で無邪気にやってみたりするから余計に始末が悪い。ウッディ・アレンではないが、「ぼくを入れてくれるような教団には入りたくない」くらいの気概がどうしてないのであろうか!? まことに嘆かわしいことである。

 あー、説教をしている場合ではない。いや、説教をしているのだった。
 ここらでインコ真理教の教義に触れよう。
 インコ真理教の教義はじつに単純明快でわかりやすいものである。わずか十一文字で表される究極の奥義がたったひとつあるにすぎないから、知力に優れた諸君にはたちどころに私の言わんとするところが理解できるであろう。こら、そこのキミ、なにもあとで試験をしたりしないから、板書をしてほしそうな目でこっちを見ずともよろしい。インコ真理教徒たる者、これから伝える奥義の教えるところを目指して、虚心坦懐にもふてぶてしく修行に励んでもらいたい。

         「みずから教祖になること」

 これがインコ真理教の教義である。よって、他人から与えられるフィクションに飢えて次回の集会に参加した者は、ただちに破門するからそのつもりで。

 以上で諸君にとって最初で最後のインコ真理教講話を終える。
 エリート諸君、ご苦労であった。



[*1]手塚治虫の戒名である。
[*2]その後、かの宗教団体をネタにした“やおい本”の中に同名の宗教が登場したことを知り、私はのけぞった。

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