迷子から二番目の真実[35]
〜 記憶 〜 [97年 1月 1日]
記憶力の衰えを痛感するようになった。
もともと大した記憶力ではないのだが、こんな私でも子供のころは無意味な暗記をけっこう面白がってやっていたものだ。よく“天才少年”などというふれこみで、駅名だの万国旗だのを記憶している子供がテレビに出てきたりするが、あんなもの、子供であれば珍しくもなんともない。あれは記憶力がすごいのではなく、あれだけのことを記憶しようという興味の持続力と集中力が子供にしては優れているだけの話である。
なにしろ子供というのはすごい。連中と来たら、ある日この国に生まれてきて何年か住人の言葉を聴いているだけで、日本語が喋れるようになってしまうのだ。大人なら、「おっと、これは憶えておかねばいかんな」などと、憶えるという行為にあたって肩に力が入ってしまうが、子供のころにそんなことを意識していた憶えはない。見るもの聞くものが、なんの苦もなく憶わって(なんて言葉があるのかどうか知らないが)しまうのだ。
あんなとんでもない記憶力のあったころに、どうしてもっとましなことを憶えておかなかったのかと、大人ならみんな思っていることだろう。かといって、そのころの記憶をもっと“ましな”記憶に差し替えられる技術ができたとしても、そんなもの誰も利用しないにちがいない。自分が自分でなくなってしまうからだ。
なるほど、東海道線の駅名だとかフランス革命勃発の年号だとか二次方程式の解の公式だとかドイツ語の強変化動詞だとかN−アセチルグルタミン酸γ−セミアルデヒドの構造式だとかジメチルエチレンジチオジセレナジチアフルバレンの臨界磁場だとか、いかにも客観的に役に立ちそうな記憶というのはある。しかし、主観的には、どの記憶の断片を取ってみても、ある記憶がべつのある記憶より“まし”であったりすることなどないのだ。たとえそれが、思い出すのも忌まわしい記憶であったとしても、である。だいたい、記憶が役に立ったとて、それがいったいなんだというのだ? ただ役に立ったというだけの話ではないか。
人間はなまじ賢いものだから、自分たちの作った道具や機械と自分たちが生得的に持っているものとを、非常に単純化して比べてしまうことがある。心臓はたしかにポンプだ。腎臓は濾過器だろう。骨と骨格筋の仕組みはクレーンのようなものかもしれない。眼球はカメラだ。だが、脚と車輪とを比べて「似ている」と思うやつはあまりいないはずだ。
コンピュータなどという機械ができてしまったおかげで、記憶するという機能のみを単純に脳と比べてしまうことはないだろうか。「脳の全記憶容量は何ギガ(テラ? ペタ? エクサ?)バイトくらいだろう」などと、誰もが思ったことがあるだろう。
ちょっと考えてみれば、これはほとんど脚と車輪とを比べているようなものだ。それに気づかないと、時速140キロで走れないから脚のほうが劣っている、ゆえに、人間は少しでも時速140キロに近づくよう、走る訓練をすべきである――という考えかたに容易に慣らされてしまいかねない。笑いごとではない。それに近い教育を受けてきた人もたくさんいるはずだ。ひょっとすると、学校というところでは、いまもそんなことをしているのかもしれない。
いやいや、大脳生理学や認知心理学がもたらした知見は一般にも広く浸透している。いまどき脳とコンピュータを単純に同じようなものだと思っている人は少ないのかもしれない。しかし、脳の驚くべき働きのほんの片鱗をせっかく最先端の学問が少しずつ明らかにしていっても、結局、それらの知見は「じゃあ、どうやったらうまく暗記ができるのか」などといった次元の低いノウハウに単純化されて市場を賑わすことになる。脳や心理の研究者たちは、「いい国作ろう鎌倉幕府」なんてことを人類がひとつでも多く憶えられるようになるために、日夜試験管を振って顕微鏡を覗き鼠を追い回しているというのか。浮かばれないことだ。
人間がものを憶えるというのは、データベースにレコードが一件増えるというのとはわけがちがう。“自分”というものそのものを、徐々に組み替えてゆくことにほかならない。
たとえば、いまここに「けめらそぺらて」という表現があるとしよう。「けめらそぺらて」は、苦く大きく狂おしく丸くて熱くすべすべしたものに触れたときに喚起される感情体験である――と適当に定義しよう。この言葉を憶えれば、あなたはこれから“苦く大きく狂おしく丸くて熱くすべすべしたもの”に出会ったとき、「私は、けめらそぺらてに圧倒された」という具合に、そのときの気持ちを的確に言い表わすことができるようになるのだ。あなたは今後「けめらそぺらて」な牛に遭遇するかもしれない。また、「けめらそぺらて」な花瓶に出会うかもしれない。あるいは、過去に目にした絵画を想起し、「ああ、あれはけめらそぺらてだったのだ」などと改めて納得したりするかもしれない。
したがって、「けめらそぺらて」という言葉を憶える前にあなたが“花瓶”だと思っていたものは、「けめらそぺらて」を憶えたあとの“花瓶”とちがっているはずなのだ。なんとなれば、あなたが世界だと思っているものを作っているのは脳であり、「けめらそぺらて」という新たな知識によって、あなたがそれまで蓄えた“すべての”知識間の繋がりが変容を受けるはずだからだ。すなわち、あなたにとっての“世界”は、「けめらそぺらて」の分だけ以前とちがったものになるのである。言葉にかぎったことではない。音楽だろうが風景だろうが匂いだろうが手触りだろうが、新たな知識を手にした分だけ、あなたの宇宙は変わるのだ。
いくらものを憶えても、そんなたいそうなことを感じたことはないとおっしゃるかもしれないが、それはその変容がほんの少しずつで、データベースのレコードのように変容を受けた部分を一意的に呼び出せるものでもないからである。
まるで脳の仕組みを見てきたように言っているけれど、脳がこんなふうに働いているという証拠を挙げることは私にはできない。しかし、自然の驚異や人間の創作物に触れ、世界の見えかたがそれまでと変わったという体験は、幸運な人ならお持ちのはずである。特定の知識が世界の見えかたを変えうるなら、あらゆる知識は多かれ少なかれ同じ作用を持っていると仮定しても否定はできまい。憶えるということの本質がひとつだとすれば、そうである可能性は高いではないか。
証拠のないままでさらに考えを進めると、“想起する”という行為も、ものを憶えることと同じだ。ある事柄を想起することによって新たに“憶え直された”知識は、それまでのあなたの世界のありかたを変容させるはずだ。だとすると、人間の脳というのは、新たな知識を取り入れようが取り入れまいが、ただ空回りのように活動しているだけでも不断に自己を変容させうる驚くべきシステムだということになる。いや、脳は自己変容ができるからこそ新しいことも憶えられるのではないか。自己を変える能力が衰えたとき、やはり新しいことを憶える能力も衰えるのではあるまいか。
私はいまだに人間の頭の中から小説やら音楽やら絵画やらが出てくることが、いちいち小さな奇跡のように感じられるのだが(大きな災厄であると感じることもままあるけれども)、創造の秘密というやつも、ひょっとすると、この脳の絶え間ない自己変容能力に隠されているのではないかと疑っている。
たまには何年か前の記憶を無理やりにでも呼び出して、何年か分だけ経験を積んだいまの私のパースペクティヴで並べ直してみることも、新たにものを憶えるのと同じくらいに重要なのではないかと思えてきた。過去を想起することで新たにものを憶える能力も活性化されるんじゃなかろうか――はて、そういう動機は次元が低いとどこかで書いたような気もするが、気のせいだろう。どうもこのごろ、もの憶えが悪くていけない。