迷子から二番目の真実[36]
〜 クローン人間 〜 [97年 3月17日]
羊や猿のクローニングに成功したというので、にわかに議論が盛んになってきた。例のアレである。「人間のクローンももう作れるんじゃないか? そんなもの作っていいのか?」
科学的理由、倫理的理由、宗教的理由、社会的理由、さまざまな理由に基づく賛成論・反対論はいろいろあるが、そこはそれ、当『迷子から二番目の真実』のことであるから、どこかひねこびた観点を提示しないと書く意味がない。
そこでこう考えてみてはどうだろう? クローン人間はすでにできているし、あなたの周囲にもうようよいる。いや、あなた自身がクローン人間なのかもしれない、と。
クローン人間ができるとして、なぜそんなものを作る必要があるかということをまず考えてしまう。だが、よくよく内省してみると、この段階ですでに頭の隅で違和感が生じていることがわかる。違和感が生じない人もいるかもしれないが、生じた人の中には、「人間は必要や目的があって生まれてくるものではない」という暗黙の前提があるのだ。私の中にもある。
「そんなことはない。人間は目的を持って生きるべきだ」とおっしゃる方、それは話がちがう。自分がなぜここにいるのか、自分の人生の目的はなんなのかというのは、各自が主観的に抱く思いであって、他人が立ち入る筋合いはまったくないものである。「私の人生の目的はこれだ」というのはかまわないが、「あなたの人生の目的はこれだ」という傲慢な言説は成り立たない。
“作る”という行為には、必ず目的が伴う。「ただ作ってみたいから」「作る過程が楽しいから」というのも立派な目的である。そういう目的も含めて、人間を“目的が先行して作られる存在”と看なすことに、われわれは、いや、少なくとも私は、抵抗を感じるのだ。
しかし、われわれは“子供を作る”という言いまわしをいつしか容認している。むかしは、子供というのは“授かる”、あるいはちょっと時代を下っても“できる”ものであったはずだ。むかしの人が、子供はコウノトリが運んでくると信じていたわけではあるまい。生物学的知識のなかった時代にも、どういう行為の結果として子供が“できる”かは、みな知っていたことであろう。だが、言葉の上では、人間の主体的目的意識が人間の誕生に介在していないかのような表現をわれわれは好んできた。「さあ、そろそろ子供を作らなきゃ」などという言いまわしは、かなり新しいものなのではないかと思うのだがどうだろう?
それはさておき、すでにわれわれは子供を“作って”いる。妊娠・出産をコントロール下に置いているし、人によっては“自分の子に社会の中でどのような機能を担わせるか”を緻密に計画しているかの如き育てかたをする人もいる。われわれ現代人は、すでに程度の差こそあれ、目的を持って子供を生産しているのだ。「人の上に立つ人になってほしい」などという漠然とした願望のことを言っているのではない。“なってほしい”という表現には、子供は独立した一個の人格だという認識がちゃんとある。ここで言う目的とは、「一流の学校を出て一流の会社に入ってほしい」「店の暖簾を守ってほしい」などにはじまって、「○○家に生まれたからには、△△たらねばならぬ」「おまえは○○のために生まれてきたのだ」に至る、子供本人の知ったことではない、親や社会の思惑のことだ。こうした親や社会の思惑は、時として、本人の意思を無視した絶対的強制力となって子供を押し潰すことがある。「おまえは○○になるべく生まれてきたのだ」などと口に出して言う無神経な親が少ないことを祈るが、口に出さずとも、いや、口に出さないからこそ、家庭環境そのものが無言の強制力となる家庭がある。旧家であったり、名門であったり、インテリ揃いであったりと、いろいろ考えられるが、そうした無言の圧力と子供の自由意思との葛藤がさまざまな問題を引き起こしていることは論を俟たないであろう。暴力的反発による悲劇、なにも起こらないからこそ不気味な劇場家庭、期待に過剰適応したばかりに自己を見失う“アダルト・チルドレン”等々の問題には、一個の人間を“作る”ことに過剰に介在した目的意識の存在を嗅ぎ取ることができないだろうか。これはもはや、旧家や名門だけの話ではない。総中流と化した日本の家庭すべてに忍び寄る影だろう。
こう考えてくると、クローン人間問題の本質は、クローニング技術とはまったく関係ないのではないかとすら思えてくる。誕生に関して他者の目的意識が介在した人間は、妙な表現だが、“多かれ少なかれクローン人間”なのだ。すなわち、現代人であるわれわれは、本質的には誰もがすでにクローン人間だとも言える。いま問題になっている、いわゆるクローン人間は、目的意識の介在を科学技術によって究極にまで推し進めただけの存在であって、本質的には「おまえは○○財閥の総帥たるべく、帝王学を修めるのだ」などと他者によって人生のレールを敷かれている人間と変わらないのではあるまいか。
「クローン人間は単なる時間差一卵性双生児」という論もあるが、ふつうの双子とちがうのは、まさにその“時間差がある”という部分なのである。ある人間がどのような形質・才能を発現するかあきらかになったうえで、その細胞を用いてクローン人間を“作る”のであるから、そこには必ず目的意識が介在する。その目的意識こそが問題なのだ。
クローン人間問題というのは、技術的ブレーク・スルーによっていま急浮上してきた問題ではなく、現在のわれわれの社会にすでにビルト・インされていた問題ではないかと思う。すなわちそれは、“他者の目的意識によってありかたを左右されない個人”として建前上は基本的人権を認められたはずの近代的人間観と、現実の社会のありかたとのギャップにほかならない。さらにこの問題を突き詰めてゆくと、われわれ日本人にとって、非常にやっかいな問題とも向き合わざるを得なくなるのである。なぜなら、上記の意味で最もクローン人間度が高いのは、あの名字のない一族だということになるからだ。
男と女の生殖行為によって生まれた“ふつうの人間”にすら、現実には基本的人権が保証されていない局面が多々あるのが、いまのわれわれの社会である。そこへ、人格を持ったクローン人間をさらに作りだすようなことは、いくらなんでも時期尚早だと思う。人種差別や男女差別、同和問題すら解決できていない段階の人類に、なあにがクローン人間だ。豚に真珠というのは、こういうことを言うのだ。
しかし、である。技術というものは、出現してしまったからには、必ず使われる。人間は、できるようになったことは、必ずやる。どういう経緯でか、やがて出現するだろうクローン人間は、逆にわれわれの近代的自我や基本的人権という概念のほうを揺さぶりはじめるにちがいない。そうなれば、“生まれかた”によって人間を差別するのがあたりまえになることも考えられる。一級人間、二級人間などと、人間に等級ができるだろう。現実には、いまもフェミニストがよく言うように“二流市民”の扱いを受けている人々はたくさんいるのだが、建前上の平等すら揺らいでしまうかもしれないのだ。これを悪夢の未来像と言う資格は私にはない。「いまの私は厭だ」としか言いようがない。現在の基本的人権という概念が、やがて――どんな方向へにせよ――超克されるべきものではあるだろうからだ。いったんちがう価値観の社会ができあがってしまえば、その価値体系の内部では、自身に関する完璧な評価はできない。あたかもゲーデルの不完全性定理のようだ。歴史がほんのちょっとちがって、名誉白人にして二級人類の私がドイツ語でいまこれを書いていたとしても、私はそれを悪夢の現在だとは思っていないことだろう。
いかにもSFファン的なこうした相対化思考は、絶対に捨ててはならない重要なものであるとは思う。が、哀しいことにタイムマシンを発明していないわれわれは、どこかで選ばなくてはならないのだ。選ぶためには、議論を尽くさねばならない。明晰に整理された言論を展開できる能力のある人は軽視しがちだが、「なんとなくこんな気がする」という意見にも、その人にそう思わせる“なにか”が深いところにあるはずだ。無視はできない。そして、一種、博打にも似た選ぶという行為に当たっては、その選択によって生ずるデメリットも引き受けなければならない。
それでなるようになったのなら、それはなるようになっただけの話である。それが元で人類が滅びたとすれば、ホモ・サピエンスというのは、ただそれだけの種だったのだ。劣った種が宇宙の中でひとつ消えただけのことである。いいも悪いもないだろう。