迷子から二番目の真実[4]

   〜 時計 〜   [94年 2月19日]



 時計が多すぎる。
 いま、さして広くもない部屋を見わたして数えてみると、時計が9個もあった。時計専用機(?)は3個、あとの6個は他のなんらかの機器に内蔵されているものだ。もちろん、これを書いているパソコンも勘定に入っている。
 たしかに、手軽に時間がわかるのに越したことはないが、こうまで時計が多いと、なにやら時間に追い回されているような気になってくる。
 一日の仕事を終えて帰宅する。ああ、うちに帰ってきたのだなとほっとするのは、鞄を置いたときでも、背広を脱いだときでもない。腕時計を外してテーブルに置いたときはじめて、プライベートな空間に帰ってきたのだと思うのだ。あたかも手錠を外すかのような解放感を覚えるのである。
 では時計がきらいなのかと思うと、どうやらそうでもないらしい。逆に、外の社会にいるときには、自分の腕時計を見るとはなはだ落ち着く。やたら機能の多い塩ビ製の安物時計が正確に時を刻んでいるさまは、私も世の中といっしょに動いているのだという安堵感のようなものを与えてくれるのである。
 一介のサラリーマンである私がラーメン屋で日替わり定食を食っている12時30分は、細川首相[*1]にとっても12時30分であり、ホーキング博士にとっても(時差はあるにしても)、やっぱり12時30分のはずである。この同じ時代の同じ瞬間が、世界中のあらゆる人にとっても同じ瞬間だというのは、嘘のようにすごいことだ。
 妙なことを言うやつだとお思いであろう。そんなことはあたりまえではないかと。でも、本当にそうなのか? 時間を共有していると感じているのは、全人類の壮大な幻想なのではあるまいか? 相対性理論によれば、ちがう場所にある完璧な時計が厳密に同じ時刻を指すことはありえないそうなのだが、私はそういう物理的なことを言っているのではない。主観的に体験される時間というものは、「おお、私はいまこの瞬間を生きて体験しているぞ」と意識する主体、つまり人間の数だけあるはずである。私の12時30分と細川首相[*2]の12時30分とあなたの12時30分は、まったく別の時間なのだ。その本来別々のものを、あたかも同じ時間であるかのように結び付けている虚構の体系が、われわれの使っている時刻なのである。そして、時計こそが、その虚構世界にアクセスするための端末装置なのだ。
 私が腕時計に対して相反する感情を抱くのは、そうしたことをうすうす感じているからであろう。人間には、時計をはめたり外したりすることが必要なのだ。健全な精神状態でいるためには、時刻という虚構世界と自分が生きて体験する時間の世界とのあいだを、常に往還していなければならないにちがいない。
 なのに、私の身の回りには、社会生活でも私生活でも、どんどん時計が増えてくる。時刻の虚構が、私に自分の時間を生きさせまいと包囲網を敷いているかのようだ。
「私はそんなことはない。ちゃんと自分の時間をたっぷり取っている」と思っている方も、ともすると、休暇中にだって時刻の虚構からまったく切り離されていないということはないだろうか? 「48時間仕事がない」というのは、「48時間自分の時間が生きられる」という意味ではない。“48時間”と定量的に意識していること自体が、時刻の仮想世界の束縛を意味しているからである。
 そう考えると、現代人が自分の時間を生きるというのは、ほとんど不可能に近いくらいに困難なことだ。こんな世界で正気を保つためには、時間の経過も時刻も忘れられるくらいに没入できる、自分が本当にやりたいことを持っていることが必要だろう。そういう過ごしかたのできる時間は、たとえそれが一日30分でも、虚構の時間の10時間にも匹敵すると思うのである。



[*1]むかし、そんな首相がいたのである。
[*2]くどいようだが、むかし、そんな首相がいたのである。

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