迷子から二番目の真実[5]

   〜 米 〜   [94年 2月27日]



 まだわが家の食卓には外米はお目みえしていない。
 どうせ食うことになるのだから、安けりゃさっさと買ってこいと同居している母には言ってるのだが、やはり抵抗があるらしく、まだ買ってきてないようだ。
 私自身はいわゆる“おかず食い”で、米など胃袋を安定させるための梱包材くらいにしか思っていないから、およそ人間の食うものとは思えないほどまずいものでないかぎりは、どんな米だろうと知ったことではない。安食堂から高級レストランまで、必要に応じてどこでだって食事をしなければならないサラリーマンが、米の味ごときにこだわっていてやっていけるものか。母はといえば、戦争を体験しているくせに、空襲のなかった京都で比較的食べものには苦労しない家庭で少女時代を過ごした[*1]せいか、米には妙なこだわりがある。おかずのグレードは落としても、米だけは頑として高級米なのだ。そういうわけで、最近わが家では、「なにを贅沢なことを言っておるか。戦争中は……」などと、息子が親に説教をするという奇ッ怪な光景が繰り広げられている。
 まあ、たしかに日本の稲作農家の人々にしてみれば、政府に踊らされていい面の皮で、本当に気の毒だとは思うが、一面で農家の側にも甘えと油断がなかったと言い切る人はいないだろう。それはそれで重大な問題だけれど、一小市民サラリーマンとしての私の関心は、正直なところ、その方面にはない。
 味にも政治にも関心がない私が気になるのは、言わずと知れた安全性である。いろいろ言っても、これが大多数の人の本音じゃなかろうか?
 大丈夫だよ、と報道はされている。あたしゃルポライターじゃないので、独自の調査を行って、「やっぱり大丈夫だ」とも「じつは危険だ」とも言いようがない。マスコミの報道に「ほー、そうかもしれんし、そうでないかもしれんな」と一喜一憂するしかないのだ。結局、なにも鵜呑みにしないまま成りゆきに流されるというのが習い性になってしまっている。われながら小市民だなと思う。
 だから、安全であろうがなかろうが、どのみち外米は食うことはたしかだし、過渡期にどんなごたごたがあろうが、そのうち慣れてしまうことは目に見えている。なんにも考えてないやつだと非難されてもかまわない。これは賭けたっていいが、人間は必ず慣れるのである。
 本当に安全なら食うし、安全でなければ――やっぱり食う。自分の給料で食えるものを食うしかないのだ。じたばたしたって、腹は減る。
 チェルノブイリ原発事故のとき、私は現代人が(とくに、現代日本人が)ものを食うということの冷厳な意味を思い知った。たしかに好きこのんで毒を食うことはない。しかし、どれだけ個人が防衛しても、自分の食うものをすべて自分の管理下で作ってでもいないかぎり、胃に入っていったものの素性をことごとく知ることは、事実上不可能なのである。私も絶対に何ベクレルか、何十ベクレルか、何百ベクレルかは摂取しているはずだ。
 あの事件の場合はまだよい。トルコのキノコをたっぷり入れた本場イタリア産のスパゲティーにキャビアを一缶からめて毎晩食うなどという食生活を、私は送ったことはない。とくに危なそうなものは、そんなにしょっちゅう食うものではなく、なんなら食わずにすませることだってできた。じつは防衛し切れないことを知りながらも、少なくとも自分を納得させることはできたのだ。「これは危ない」などという食品のリストを、やっぱり真剣に眺めてみたりしたことは白状しておこう。
 もし安全性に問題があったとしても、今度はそうはいかない。金に糸目をつけず、国産米を食べ続けることは、頑張ればできないことはないだろう。だが、私が食わなかったキャビアを“食わなければならなかった”人はおそらくいないが、仮に私が金にあかせて(?)外米を拒否すれば、私より収入が少ない誰かが、きっとそれを食うことになるはずだ。そのうちきっと、「タクは、安全のために無理してでも国産米にこだわってますの、おーほほほ」などと自慢する無神経なやつも現れるにちがいない。それはすなわち、「貧乏人は毒を食え」と言っているに等しいのである。
 今回、外米をめぐって、安全だ危険だ、食う食わないといったすったもんだが、しばらくはあちこちであることだろう。しかし、こういう問題はなにも米に始まったことではない。毒を食わなければ生きていけないのが、現代というものなのだ。かといって、“私は”毒は食わずに生きてゆきたい。矛盾である。
 この矛盾がどういう結果となって表れるかを考えると、じつに気の滅入る近未来像が浮かび上がる。
 毒を食わねばならない。でも、自分は食いたくない。当然、より力のある人間が毒を食わずにすむ、いや、より少ない毒を食うことになる。ということは、収入と平均余命に統計的な相関が出てくるはずである。
 そんなことはむかしからじゃないか、と一瞬思うが、よく考えるとちがう。金持ちじゃないと必要な栄養も摂れないという時代には、貧しい人は早死にしただろう。多少貧しくともちゃんと栄養が摂れるという時代には、下手をすると金持ちのほうが早死にする。余計なものを食って、余計な死因を作るからである。ただし、金持ちのほうが高価な医療や良質のケアが受けられるから、その効果はある程度相殺される。いずれにせよ、むかしはプラスの得点を争うのが生き残りゲームのルールだったのだ。
 ところが、もはやルールはちがう。いかにマイナス点を取らないようにするかで争っているのである。じつのところ、だいぶ前から新しいルールに変わってはいるのだが、戦争があったために誰が勝っているのかわからなかったのだ。いまは泣く子も黙るお金持ちでも、戦中戦後には満足に食べられなかった人もいる。逆に、子供のころは何不自由なかったが、いまはおちぶれているという人もいよう。もちろん、戦争で死んでしまったり、命を縮める健康上の障害を受けた人もたくさんいる。なにを食ったから早死にした、長生きしたについては、信頼のおけるデータの集めようがなかったわけだ。
 戦争がない期間(平和な期間という意味ではない)がこれだけ続いたのは、日本史の上でもじつに久しぶりのことである。そして、いまは江戸時代とちがって、さまざまな観点からちゃんとした統計データが取れる。きっとこれからは、見て見ぬふりをしていたかった社会的階層と平均余命の相関関係が、まざまざと表面化してくるのではなかろうか。より安全なものが食えるということが、社会的特権になってくる。いや、もともとそうなのだが、それがはっきりしてくるのだ。
 あー、いやだいやだ。命だけは平等だなどという幻想を持っているつもりはないが、「ほれ、このとおり」と事実を見せつけられるようになったら、やっぱりやり場のない義憤のようなものを感じてしまうにちがいない。おそらくほとんどの人が同じように感じるだろうから、この手のデータは注意深く隠蔽されるようになるだろう。理屈としてはわかっていても、証拠を見せつけられたくないという心理は誰にでもあるものである。

 なんだか、市民フォーラムみたいになってしまったが、たまには私だって真面目なことを考えるのである。誤解のないように願いたいが、私は外米が安全だともそうでないとも言ってるわけではない。そんなことを論じる準備も能力も私にはない。ただ、米の問題に触発されて考えたくないことを考えてしまったと、ぼやいているだけなのだ。

 さて、飯にしよう。



[*1]いまはすっかりおちぶれている。

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