迷子から二番目の真実[7]

   〜 歌詞 〜   [94年 3月13日]



 パソコン通信でいつも弱るのは、歌詞の引用ができないことである。
 たしかに、歌詞を考えて飯を食っている人々の権利を護り、彼らが生計を立てる手段を確保して、人類の文化にさらに貢献してもらうためには、ある程度の規制は必要なことだ。あるいは、どう考えても道を誤って歌詞を書いているとしか思えない人々に、一刻も早く商売替えしてもらうためにも、公正な自由競争が行われる環境は保持されるべきであろう。いずれにせよ、歌詞の引用には慎重を期するに越したことはない。まことにけっこうなことだ。
 しかし、だ。広く人口に膾炙し、庶民に親しまれることこそをそもそもの目的とする歌謡曲の歌詞に関して、あまりに規制がやかましいのも考えものだと思うのである。
 歌謡曲の一節に感銘を覚える。台所で食器を洗いながら、ふと口ずさむ。いいものだ。歌は世につれ、世は歌につれ。歌謡曲には、とかくいろいろな思い出がまつわりついて消えないものである。
 ひとりひとりが人生のさまざまな思い出を付着させて心に刻み込んでいる歌の一節を、文章を書くときにも台所で口ずさむように引用したくなることは、ままあるではないか。どんなに客観的にはくだらない曲の歌詞でも、「この感情、この思いを表現するには、このフレーズを使わなければならない!」と感じたことは、誰しもあるであろう。それでこそ、歌謡曲なのである。人々にそういう思いを抱かせることが、歌謡曲というものの究極の目的であり、存在価値ではないか。キャベツをきざみながら、『リア王』や『リチャード三世』の一節を暗唱したくてたまらなくなる人など、あまりいないはずである。
 そう考えると、こと歌謡曲に関するかぎり、あまりにも厳しい歌詞引用の規制は、歌謡曲が自らの存在価値を圧殺することにもなりかねない危険をはらんでいる。「わしの書く歌謡曲は、気やすく口ずさんだり、あちこち引用されるような安っぽいものではないのじゃ」という人は、歌謡曲なんか書かなければいいだけの話である。歌謡曲というものは大衆のものなのだから、そういう人は商売をまちがえているのだ。
 中島みゆきの詞の一部に自分の署名をして発表するなどというのは、あきらかに悪意の盗作であって、許されるべきことではない。だが、たとえば、文章で金をもらっているわけでもない一般のパソコン通信の利用者が、失恋の思い出の書込みなどに歌詞のほんの一節を引用する、といったことまで規制してしまっていいものかどうか。そういう使われかたをしなくて、なにが歌謡曲であるものか。このあたりのことを、もう少し関係団体は考え直したほうがよい。余計なお世話かもしれないが、自分たちの首を絞めているだけなのではなかろうか。これは歌謡曲を愛する一ネットワーカーの声として、関係者は真剣に受け止めていただきたい。

 さて、とはいえ、悪法も法である。私はことなかれ主義の小市民であるから、規制が存在するからには、形式上は努めてルールを守るようにしている。演歌以外のカラオケは大好きなので、好きなミュージシャンが創作活動にも窮するほどに貧乏では困るのだ。たまのカラオケは、ストレス解消に持ってこいである。
 私は異様に低い特徴的な声をしているもので、たいていカラオケのキーは合わなくて困る。しかし、それにもめげず、好きな曲には、一オクターブ落としてでも挑戦するのだ。
 たとえば、私が無理して歌う小坂明子のヒット曲に、“私が住居を建設したと仮定すると、小型のそれを建設したことであろう。換気および採光用の開口部面積は大きく、入出用開口部の外気を遮断する板は小さくし、室内には製造後相当の時間を経たように模した西洋風暖房用竃を設置する。可視光の中では最も長い波長帯域の光線を効率よく反射する薔薇と三原色の各帯域を比較的偏りなく反射する三色菫を栽培し、人類が最も古くから愛玩してきた脊椎動物の幼獣に近接してあなたがいるという状況を現出せしめる。それが私の希望するところであったのだが、私の愛情を喚起する性質を持ったあなたは行方不明である”という大意のものがある。これなどは、オクターブ下げるとお経のようで聴き苦しく、オリジナルのキーでは、鶏の断末魔のようになってしまう。キー・チェンジャーのついた機種(ボックスはともかく、スナックにはないこともあるのだ)でも、調節がきわめて難しいやっかいな曲である。
 ほんとにおっさん声のくせに、私は女性歌手の歌が好きで、むかし南沙織が歌った“人気(ひとけ)のない海洋と陸地の境目の細かな砂で満たされた箇所で、あなたの私に対する愛情を確認すべく、私を固定しようとするあなたの肩と手首のあいだをかいくぐり走り出した。その水分を含んだ土地は紫外線の反射が強く網膜を痛めそうで、呼吸困難にすら陥りかねない。早急に私を再び固定することをあなたに懇願する。私はあなたに愛情を抱いており、私はまだ死んではいない”という主旨の曲も大好きである。同級生の女の子に幼いときめきを覚え始めたころの曲なのだ。最近は森高千里のバージョンしか置いていないが、それでもがんばって歌う。
 ノリノリのときは、テンポのいい曲もよい。私はあまりチェッカーズというのは好きではなかったが、彼らの“幼少のみぎりより悪童で、中学三年にして素行や対人関係に問題のある児童という社会的評価を確立した。西洋風小刀のように鋭角的態度で、接触する人々にはことごとく精神的・肉体的損傷を与えた。必ずしも一般の理解を強制するものではないが、私に世評ほどの重大な瑕疵が認められるであろうか。これは子守歌だ。強調するために繰り返すが、これは子守歌である。したがって、就寝の挨拶をしよう。これは、荒んだ心情のララバイなのだ”という意味合いの曲は、おとなしい学生だった私にもよく理解できるものがあり、レパートリーに入れている。
 どうも先ほどから説明がしにくいような気がしているのだが、たぶん気のせいであろう。曲名だけでは、知らない人にはなんのことだかわからないだろうと、これでも気を使っているのだ。
 ほかに、太田裕美が歌った“成功を夢見て上京して都会に過剰適応してしまった地方出身の青年に捨てられた、青年と恋仲であった女性が安物のハンカチを慰謝料として請求する書簡”の体裁をとった曲や、“10キロボルトの電圧を帯びているかと思われるほど魅力のある目をした今世紀風西洋天草四郎のような女”を歌った堀内孝雄の曲なども青春の思い出である。“清純そうな演技をするとなじられて悩んでいる女が、じつはやっぱり消極的にではあるが虎視眈々と男をものにする機会を狙っているのだと固い決意を表明する”内容の、岡村孝子が二人で歌っていたころの曲なども、あたりさわりのないデュエットには持ってこいだ。

 さあて、今回はきわどい綱渡りなので、ことによるとシスオペをいたずらに悩ませてしまうかもしれない[*1]が、それは私の本意ではない。課金を払って読んでくれたみなさんが、ほんの少し楽しみ、ほんの少しなにかを考えてくださるなら、それで私は本望である。もし、あなたがここまで読むことができているのなら、無事に掲載されたということだ。万歳!

 さあ、みんなで歌おう!



[*1] WWWとちがい、NIFTY-Serve のような商用ネットでは、権利侵害になりかねない発言に対しては、各フォーラムのシスオペが削除要請を出したり、強制的に削除したりすることがある。「ついうっかり」なのか、故意の盗用なのかを判断するのはなかなか難しく、ちょっとした言葉の行きちがいからトラブルが起こることもしばしばである。インターネットには管理者がいないのだから、よほどのことがないかぎりプロバイダに強制削除されたりはしないが、だからといって他人の著作物を好き勝手に盗用しまくっていいことにはならない。言論の自由を保証されたいのなら、他人の権利も尊重すべきである。あらゆる著作物は誰もが自由に使ってよいのだという極論もあるが、そういうことをやっていると、結果的に大きなお世話な管理団体や官憲の介入を招き、当初よりも言論の自由が制限されるという皮肉な結果にもなりかねない。難しいところである。

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