迷子から二番目の真実[8]

   〜 心霊写真 〜   [94年 3月17日]



 幽霊を見たことがない。
 むかしから、幽霊だの妖精だのというものは、心の清らかな者にしか見えないという暗黙の了解があり、社会もよってたかってそのように教育するものだから、幽霊を見たことがないと公言するのは、いささかの決意を要する。気の弱い人などは、本当は幽霊を見たことがなくても、「病院で白い靄のようなものが廊下を漂ってゆくのを見た」だの「隣のお婆さんが亡くなった夜に、あやしい物音を聞いた」だの、なにかしらそれらしい体験を心霊体験として語ってみたくなるのかもしれない。どうということのない体験でも、いかにもそれらしく何度か人に語り聞かせていると、自分自身で信じ込んでしまいがちである。そうなると、もはや「見舞客が待合室で煙草を吸っていたにちがいない」とか「臨終を見取った往診の医者が夜中に帰ったのかな」などとは、けっして思わなくなるのであろう。
 こういう意見を述べると、「おまえは霊の存在を信じないのか」と、それこそ幽霊を見るような目で、嫌悪感もあらわに決めつける輩がいるから世渡りはむずかしい。べつに私は信じるとも信じないとも言っていないのである。判断を下すだけの最小限のデータもない状態では、「あるやもしれぬし、ないやもしれぬ」以外のなにが言えるというのか。それ以外のなにかを、仮説としてではなく判断として主張するのは、きわめて不誠実な態度である。もし神が存在するとしたら、そういう輩には神罰が下る可能性がある。神が存在しないとしたら、残念ながら、そやつらにはなにごともないであろう。アーメン。
 そういうわけで、天の邪鬼な私は、霊の存在を頑として主張する人には努めて近代科学的皮肉を、頑として否定する人にはなるべくニュー・サイエンス的なはぐらかしをもって対処することにしている。「はっきりしないやつだ」と、相手がじつに正しく私を評価してくれるのを聞くのは楽しいものである。そのとおり。はっきりしないことを話題にしているのだから、あたりまえなのだ。最近話題の“大槻義彦 対 宜保愛子”の闘いなども、そんな“はっきりしない”私には、どんぐりの背くらべだとしか思われない。

 それにしても、である。霊が存在すると主張する人々がその根拠とするところは、霊が存在しないと主張する人々のそれにくらべてあまりにも稚拙なことが多いのは事実である。私としては、霊魂存在派に頑張ってもらって、もっともっと“はっきりしない”状態に持っていってもらいたいと思うのだが……。簡単に勝負がついてしまっては面白くないではないか。
 そこで、今回は、霊魂存在派を応援するために、彼らにささやかなアドバイスをしてみようと思うのである。
 さて、まずなにより、あの“心霊写真”というやつを見せるのは絶対にやめたほうがよい。このデジタル時代に、写真なんぞを証拠として提示された日には、こちらがしらけてしまう。録音や録画の証拠能力は法廷ですら問題であるというのに、いまさら写真を見せて霊の存在を云々するなどという戦術は、私が霊魂存在派であったとしても、まずとらないであろう。もし私がまぎれもない心霊写真を撮影してしまったとしたら、私はそれをひた隠しにして、ほかの方法で霊魂の存在を証明しようと努めるにちがいない。パフォーマンスとして圧倒的に不利だからだ。プレゼンテーションのやりかたをまちがえると、たとえ真実でも嘘くさく聞こえてしまうものなのである。
 それでも、自分の撮影した写真に本当に掛け値なしの幽霊が写っていたとしたら、やっぱり人に見せて霊の存在を主張したくなるのが人情というものだ。さあ、どうしよう。
 他人に信じてもらうためには、誰でもすぐに発見できるようなおかしな点があってはならない。そういうところがない写真であれば、できれば見せないに越したことはないが、やむを得ず人に見せても、それ相応の説得力は持ち得るであろう。
 さて、チェックだ。心霊写真のご用意はよろしいだろうか?
 まず、その幽霊は服を着ていないだろうか? 着ているとすれば、きわめて嘘臭いので、たとえ正真正銘の心霊写真であっても、人に見せるのは思いとどまったほうがよい。そういう幽霊が存在するとすれば、当然、その幽霊が着ているセーターは“セーターの幽霊”なのであり、だとすれば、時と場合によっては“セーターの幽霊”が単独で写っている心霊写真があったっていいはずなのである。これはなかなか胸躍る想像で、眼鏡やコンタクトレンズの幽霊、ブラジャーやステテコの幽霊などが、ただ虚空に浮かんでいるだけの心霊写真というのも、なかなかにほのぼのとした心の和むものであろう。まあ、とにかく、幽霊は生まれたまま(というか、死んだまま)の姿、一糸まとわぬ裸体で写っていたほうが、より説得力があるのである。
「おお、なるほど。それなら……」と、企画力旺盛な読者の中には、“ヘア心霊写真集”で一石二鳥の一獲千金を一朝一夕に狙おうという方がいらっしゃるかもしれない。だが、ちょっと待っていただきたい。
 幽霊にヘアがあるというのはおかしかなかろうか? 幽霊というのは、生前生きていた部分(?)が死んでからもなんらかの形で存在しているからこそ幽霊なのであって、毛髪のように厳密には生きていたとは言えない組織が写っているのは論理的におかしいのではないか。毛根なら写ってもよいが、それは幽霊の皮膚の中にあるので見えないはずである。
 したがって、マネキンのようにつるつるの素っ裸というのが、幽霊の正しい写りかたなのである。まず、これが基本だ。メモしていただきたい。
 ここで反論があるかもしれない。「幽霊というのは、おまえの考えているような即物的なものではなく、本来は形のない存在なのだ。彼らが(たとえ服を着ていようが)生前の姿をとって現れるのは、われわれの心になんらかの方法で働きかけて、われわれが驚かないように(十分驚くが)わかりやすい姿を見せてくれているだけなのである」
 なーるほど。すると、幽霊が服を着ているのは、彼らが未知のエネルギー波かなにかでもって、われわれに幻覚を見せているというわけですな。うむ、もっともだ。それなら、まだわかりやすい。
 では、その説をとることにして、もう一度心霊写真のチェックに戻ろう。
 その場合は、服を着ていても毛が生えていてもよい。それは認めよう。ところで、その心霊写真の幽霊がたまたまあなたの知人だった場合、生前と生き写し、もとい、死に写しの顔をしていないだろうか? そうであれば、これまた著しく信憑性を削ぐので、公開は見合わせたほうがよい。
 なぜなら、もし幽霊が能動的に自分のセルフイメージをわれわれの心なりカメラのフィルムなりに投射しているのだとすれば、その像は生前のその人の姿とはかなりちがって見えるはずだからである。
 ショーウィンドウに映る自分の姿にぎょっとした経験は誰にでもあるかと思う。ふつうの人間が自分に対して抱いているイメージは、他人がその人を客観的に見る姿とは、相当にかけ離れているものなのである。きわめて優れた俳優などには、自分が他人に与えるイメージを、セルフイメージをコントロールすることによって操作できる人もいるが、これはまず常人にできる技ではない。幽霊とて例外ではないはずで、「私の生前の姿を友人に見せてあげよう」などと自分の姿を霊波かなにかで生者に送ったとすれば、その姿はわれわれの目には、うぬぼれの強い幽霊なら生前以上の美男美女に、劣等感の強い幽霊なら仏壇の遺影よりも醜く卑屈に映じるはずなのだ。
 だから、写真に写っている幽霊は、生前のその人と少しちがった、とはいえ、一応その人であると知人が認識できる程度に曖昧なものが好ましい。あまりにちがっているのは考えものである。幽霊になった私が写真に写ってやろうと、懸命に(懸ける命はないのだが)霊波なりなんなりを放射してセルフイメージをフィルムに焼き付けても[*1]、「あら、この幽霊誰かしら? ロバート・レッドフォードの生霊かしら?」などと言われたのでは、死んでも死に切れない(死んでるってば)。

 さて、いかがなものだろう。以上のようなことが、私には、専門家が写真鑑定などしたりする以前の問題として素朴に気にかかるのだけれど、いままで誰ひとりとして納得のゆく謎解きをしてくれた人がいない。中には私にからかわれているのだと思い、露骨に不快な顔をしたりする人がいるくらいで、真剣な私は非常に哀しい。私は本当に知りたいと思っているのだ。
 しかしまあ、なにも焦ることはない。いずれ自分で死んでみればわかることだ。この謎解きは、それこそ老後の楽しみとしてとっておくことにしよう。



[*1]その後、幽霊はデジタルカメラにまで対応しなければならなくなった。ご苦労なことである。

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