キリスト教の教会とは、いったい何



教会とは、現代社会の中に居場所を失った人たちの、
社会における社会の役割としてのコミュニティーなのでしょうか。

「それから、イエスは言われた。
全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

(新約聖書・マルコによる福音書・16章15節・新共同訳聖書)

ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を、
創造主なる神によって、
神のひとり子イエス・キリストの生と死と葬りと復活において備えられた、
神の怒りの裁きからの救いという・・・事柄を、
教会の外へ広く説き解き明かすところが教会なのです。

ところが日本では、
社会の中で、人間関係に苦しみ傷ついた人たちが、
”神の怒りの裁きからの救いではない救い”を求めて・・・、教会にやってくる。
それが日本の現実の教会の姿です。

言い方を変えれば、
自分の思う通りにならないいらだちから、
自分の生き方にたいして肯定的な同意や励ましを求めて、
社会の中で得られなかった自分にたいする評価を求めて、
自分の義を求めて教会にやってくると言っていいでしょう。

自分が正しいと思えばこそ苦しみが増すものです。

キリスト教の教会は、
日本の社会で広く行きわたっている、
行動の規範としての善悪の基準や道徳観を説く所なのでしょうか。

そうではないはずです。
キリストの福音と、私たちの思いや行動といったものとの関係を、
福音に基づいて解き明かすものであるはずです。

現代社会において、さまざまに人々を苦しめている問題は、
そもそも人間の本性的な性質に原因があることを明らかにしなければ。
人間の本性的な性質が、
思いや言葉や行為行動に強く影響を与えていることを明らかにしなければ。
私たちのすべての生の背景には、
生まれながらに負っている罪・原罪・があることを明らかにしなければ。
人間の生まれながらに負っている罪について明らかにしなければ、
根本的な解決にはつながりません。

一般信徒がさまざまに人間関係の苦しみを持って教会にやってきます。
それを教職者が、キリストの福音を抜きにして、
福音の基準ではなく、
一般社会の基準に基づいて取り扱おうとするなら、

それは、キリストの福音が抜け落ちた、
なんら一般社会と代わり映えのしないものになってしまいます。

キリスト・イエスは、救い主・メシアです。
この世界にキリストが生まれたということは、
神の目から見て、この世界が罪の中にあること、
私たちは生まれたときから堕落していることをあらわしているのです。

私たちが逃げることも救われることもできない状態でなかったなら、
キリスト・イエス・つまり救い主がこの世界に生まれ来る必要などないのです。

それほどに私たちは窮地に追い込まれていることを自覚しなければなりません。
簡単には逃れられない苦しい立場や状態にあることを自覚しなければならないのです。

すべての人間の、あえぎや苦しみや痛みや悲しみというものを、
どのような方法で取り除こうとしても取り除けない、
その根本的な原因を明らかにすることによって・・・。

苦しみの原因は、自らが作りだしていることに気付くこと。

苦しみの原因が分かれば、
そこから抜け出す方法も見出すことができるのです。

「すべての人は、罪を犯したので、
神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、
キリスト・イエスによる贖いのゆえに、
価なしに義と認められるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23〜24節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on August 27, 2014.