あなたの信仰は、律法的になってはいませんか
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クリスチャンになったら、
あれはいけない、これはいけない、こうあるべきだとか・・・。
きゅうくつな教会生活を送っていませんか。
いろいろと日々の暮らしの中に制約を作ってはいませんか。
広い視野に立って考え行動する機会や意志を持っていますか。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)
目の前のなりゆきにとらわれず、全体を広い視野に立ってみわたし、
物事の本当の姿を見定めることの大切さを忘れないでください。
キリスト者になるということは、
人を縛っているものから解き放たれたことを意味しているのではありませんか。
「なぜなら、律法を実行することによっては、
だれ一人神の前で義とされないからです。
律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
ところが今や、律法とは関係なく、
しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章20〜21節・新共同訳聖書)
福音は、律法とは別に、律法の外に、明らかにされたのです。
あれはいけない、こうあるべきだとか言っていたのでは、
神の前で正しい者として認められないのです。
律法によっては、かえって罪の意識が生まれるだけなのです。
イエスは、何のために十字架に死なれたのですか。
私たちを罪の縄目から解き放してくださったのではありませんか。
教会は、神の言葉によって集められ、基礎づけられ、整えられた共同体ではないのですか。
それが、人を縛ってしまうような方向にむいてしまえば、
まわりの人たちは、教会をどのように見るでしょうか。
閉鎖的で近寄りづらい存在に見られます。
それは、福音宣教にとってマイナスにはなりませんか。
教会は、決して社会の構造の中の一つの施設ではありません。
福音を広める活動のための足場となるものです。
「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。
ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」
(新約聖書・ガラテアの信徒への手紙・5章13節・新改訳聖書)
教会は、またクリスチャンは、
神の言葉と、その証人たちによって基礎づけられ、
神の言葉がすべての土台となり、
神の言葉によって支えられていることを忘れないでください。
北白川 スー
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on September 13, 2015.