教会は、暗くて、うっとうしい・・



わたしが、キリスト教の教会の、
日曜日の朝に行われる礼拝に行くようになったのは、
キリスト教に興味を抱いたわけではなく、
家の宗教がキリスト教だということでもない、
難しく言えば、宗教的帰属がキリスト教だということでもなく、
宗教的なアイデンティティがキリスト教にあったわけでもない。

一般的な日本人のように、暮らしの節々にやってくる、
いわゆる冠婚葬祭に代表される、生活習慣になっている祭ごとは、
仏教的であり、また神道的なものに馴染んでいたのだ。

それが、なぜキリスト教に改宗したかと言えば、
日本の教会でよく耳にする事情の持ち主のクリスチャンがそうであるように、
詳しくは書かないが、自分の仕事に行き詰まり、
それがきっかけとなって、
それまでの自分というものに疑問符を突きつけたところに始まったのだ。
混沌とした混乱した自分というものに終止符を打ちたいという思いだった。

終止符を打つということは、
今まで背負っていた重荷を降ろすということでもあり、
大きく方向を転ずることである。
それは大変な決断であった。
そのような心境の変化と同時進行のようにして、
バイブル・聖書との出会いがあり、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざという出来事との出会いがあった。

そのイエスの十字架の出来事に、
これからの人生を照らす希望の光りを見いだしたのだ。
それは、おどろきであったし、期待であったし、喜びでもあった。
そのようにして教会に行くようになった。

ところが、おどろいたことに、
期待に胸をふくらませて教会にやって来たものの、
教会の信徒たちは、
なぜか、疲れはて、暗く、もの悲しげに沈んでいる。
色々と暮らしに問題を抱え、満たされず・・・、
人間関係に疲れ果てている・・・・。

なぜ今の状況を断ち切らないのだろうか。
今の苦境から、困難と思える今の状態から抜け出したいという、
「個人的な救い」への渇きと言っていいものがあるのだろうかとさえ思った。
その心境というものは実によく分かる、
自分もかつてそうだったのだから。

しかし、ならば、なぜ、
キリストへの信仰を持ち、
キリストの十字架の出来事によって救われ、
明日への希望を手にした者が、
いまだに暗く沈んだ、疲れた表情をしているのだろか。

聖書は次のように語っている・・・、
「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、
御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。
この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、
新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」

(新約聖書・テトスへの手紙・3章5節・新共同訳聖書)

聖書は、行為や行動によって救いを得なさいとは言ってはいない。
何かに役立つ行為をすることなど求めてはいない。
行いを積み重ねることによって救われるとは言っていない。
何ものの対価などを求めず、
イエス・キリストを信じることによって救われると語っているのだ。

すでにキリストは、わたしたちのために、
ご自身を、十字架にその命をささげることによって、
まことの道から外れていたわたしたちをあがない出してくださったのだから。

キリストへの信仰を持ったものの、暮らしの形や姿、
様式といったものが信仰を持つ前と何ひとつ変わらず、
そのままだとしたら、
色々と問題を抱えたままなのもうなずける。
しかし、キリストへの信仰を持つということは、
以前の生活にくらべて、
はるかに希望に満ちた新しい人生を手に入れたはずである。

すでに新しくされているのだから。
大きく方向転換したはずである。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、
新しく創造された者なのです。
古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章17節・新共同訳聖書)

「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。
その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、
この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、
また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、
わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、
わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、
良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。
十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。
だれにも侮られてはなりません。」

(新約聖書・テトスへの手紙・2章11〜15節・新共同訳聖書)

何がまことの神にたいする不敬虔にあたるのか、
何がこの世の欲にあたるのか・・・。

混乱した暮らしを改めようともせず、
それにしがみつこうとするなら、
どこに救いはあるのだろうか。

愛し、希望を与え、御手をさしのべて、語りかけ、
助けてくださったのはいったい誰なのか。
もういちど思い起こしてみようではないか。

私たちの罪深さは常に付きまとってはいる、
しかし、キリストは、どのような状況であれ、
語りかけ、手を差し伸べておられるのだから。


北白川 スー

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Wrote up on June 25, 2015.