教会は、社会の矛盾に目を閉じていると



何かと行き詰まりを感じて・・・、
今までとは違った人生を送りたいと、
色々とやってはみたものの、
自分が思っていたようには行かず・・・。

自分の思う通りに事が運ばないことに・・・、
思いと実際との食い違いに、
いらだちとあせりに苦しんでいる人にたいして。
なにごとも、
変化を求めるのではなく、今の状態を受け入れることだと・・・。
いまのままでいいと・・・。
すべてを許すことだと・・・。

または、
自分の生き方にたいする評価が得られない苦しみを訴える人にたいして、
その人の生き方にたいする肯定的な言葉をを与えることによって、
はげまそうとするなら・・・。

どちらにせよ、
宗教が与えるはげましは、このようなものです。

宗教にたいする痛烈な批判は、
社会の問題にたいして無力だと。
現実の日本においては、
原発や憲法九条や格差や人権や環境破壊などなど、
社会の矛盾に目を閉ざしていると批判される。

キリスト教の教会も同様だと。

しかし、聖書・バイブルは、そのようには言ってはいない。

現実の私たちの暮らしそのものは、
物にあふれた、近代的で豊かに見える暮らし向きは、
実は、罪のなせる業なのである。
罪の結果だと明確に言っている。

社会がさまざまに抱えている深刻な問題は、
すべて、人間の本性的な罪深さが原因なのです。

聖書・バイブルは、一段と厳しい言葉で私たちに問いかけている。
「一人の罪によって、
その一人を通して死が支配するようになったとすれば、
なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、
一人のイエス・キリストを通して生き、 支配するようになるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章17節・新共同訳聖書)

リアルに変化が加速している手遅れに近い現実の姿にたいして、
今まさに、ブレーキをかけることが必要であろう。
今にとどまるのではなく、
進む向きさえ変える必要があるはずである。

もとのところへ、原点に立ち返ることを求められているのだ。

つまり、福音の宣教こそが、
人々のさまざまな欲望にブレーキをかけことができるのです。

教会は、社会問題に取り組むのではなく、
福音の宣教によってこそ、
人の心にブレーキをかけ、向きを変えさせることができるのです。

福音によらなければ、
人は、人の心の罪深さ、愚かささえ気付きもしない・・・。

福音すなわち、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、

ひとりの例外もなく、私たちは、皆・・・。
罪人であることを指し示しているのです。
そして、そこから抜け出す方法も示しているのです。

日本のキリスト教の在り方が、
日本の誤りを許してしまったという認識に立つこと。
そして、教会こそ、
正確に福音について考える必要に迫られているのです。
それ以外に日本を救う道はない・・・。

福音は、人の意識を変え、価値観を変え、
行為や行動すら変えてしまう力を持っている。

「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。
それは、神の知恵にかなっている。
そこで神は、宣教の愚かさによって、
信じる者を救うこととされたのである。」

(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・1章21節・口語訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on May 17, 2014.