教会とは、どういうところですか
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宗教とか、信仰するとかは、
消極的な態度だと思っている人は、実に多いものです。
学業や仕事に挫折し、人間関係に疲れはて、
身体や心に病を負って、自分の身の置きどころに不安を覚えている人たちを、
キリスト教の教会は、門前払いすることなく受け入れているからでしょうか。
そのような教会の姿を、外から見るにつけ、
心に病がある人や、社会的弱者など、
弱さを覚えている人の行くところとだと見ているわけです。
現実の社会というところは、
複雑な人間関係の荒波の中で、ときとして身体に心に病を負ってしまうものです。
本来ならば、社会そのものが、
身体や心に病を負ってしまった人たちを受け入れる機能を整えるものであるはずです、
しかし現実は、社会それ自身が、
複雑な人間社会の中で身体や心に病を負ってしまった人たちにたいして、
人間的な温かなケアができる構造になってはいません。
ですから、わずかな力しか持っていない教会が、
その受け皿としてその役割を負わされているのです。
そのような働きを教会独自の活動の柱として位置づけている教会もあります。
しかし、その働きが大切なものであっても、すべてではありません。
決して本来的な教会の姿ではないのです。
私たちの日本では、キリストの教会の本来の姿、本質的なあり方というものが、
あまりにも知らされていないのか、
知らないのか、隠されているのか・・・・。
いずれにしても、本来あるべき教会の姿が正確に伝わっていないようです。
教会というところは、社会的弱者を受け入れる施設ではありません。
キリスト教の教会は、明確な目的を持って社会の中に存在しているのです。
「それから、イエスは言われた。
・・全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。・・」
(新約聖書・マルコによる福音書・16章15節・新共同訳聖書)
教会は、福音を、すなわち、神の啓示の出来事を、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざという出来事を、
その内容と意味とを、宣べ伝えることを、働きの中心としているのです。
決して社会的な弱者を拒むものではありません。
その人たちをも含めてという意味です。
同じ人間としてです。
福音は、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事ですから、
すべての人たちに向けて伝えられるものだからです。
宗教とか、信仰というものについて考えてみましょう。
信仰心というものは、
私たち人間が共通して持っているものです。
心の中にある究極的なものを、より深く知ろうとする、
人間としての気持ちや姿勢というものがあらわされるものと言えます。
自然に態度や行動にあらわれるものです。
信仰というものは、私たちの生きている日常の中に、
私たちの存在と共にあるものです。
その姿勢や気持ちというものは、究極的なものとの関係において、
自らがこの世に存在しているその意味を見いだそうとし、
さらに追い求めるものとなるのです。
この世にある自分の存在理由を追い求める姿勢から、
あるべき人間としての生き方を見いだし実現しようとするところに、信仰というものがあるのです。
私たちの存在理由はどうでしょうか。
私たちは、なぜ、この世界に存在しているのでしょうか。
言い換えれば、人間は、どのように生きるのか・・・・。
現代社会のスローガンは、・・自分の力を信じて・・生きようでしょうか。
自分を支えるものは自分以外に存在しないと言っているようです。
言い換えれば、人間を支えるものは人間だけだと言っているようです。
日本では、自分を信じて生きることが最も正しいことだと教えられています。
しかし、自分を信じることの危うやさは、
現実の人間の生きざまがそれを証明しているのです。
自分の力が信用できなくなったとき、
混乱と混沌が待っています。
そこにあるのは絶望しかないのです。
しかし、私たちの人生というものは、
見えざる力によって支えられているとすれば・・・。
その存在を見いだしたなら、どれほどの励ましになるでしょうか。
報いある豊かな人生を約束してくれるもの、
それは、あなたを目的を持って造られた、
あなたの道を整えてくださる方なのです。
その方との出会いこそ、
人の心に平安と安息とを与えてくれるのです。
その方の存在を明らかにする出来事こそ、
神の啓示の出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざという出来事・・・・。
すなわち福音なのです。
社会的弱者の救済とか、人の信仰心を満足させるものが、
決して教会の存在理由ではありません。
教会は、神の啓示が明らかにされるところです。
私たち人間が神に聞くという・・・・。
神が人間に向けて語られることを聞くという、
この一つの事によって基礎づけられ支えられているのです。
この日本は、問題としなければならないほど、
神の啓示が語られる機会の少ない社会なのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者は裁かれない。
信じない者は既に裁かれている。
神の独り子の名を信じていないからである。
光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、
光よりも闇の方を好んだ。
それが、もう裁きになっている。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜19節・新共同訳聖書)
北白川 スー
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on June 21, 2015.