眠気を誘う説教



”うちの説教は眠くなる ”・・と、よく耳にします。
”話は長いし何を言いたいのか分からない”とも聞きます。
長くクリスチャンをやっている人からではなく、
洗礼を受けてから5年から10年といったところのクリスチャンからよく耳にするのです。

聖書・バイブルは、

「 一緒に食事の席に着いたとき、
イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、
パンを裂いてお渡しになった。
すると、二人の目が開け、
イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は、『 道で話しておられるとき、
また聖書を説明してくださったとき、
わたしたちの心は燃えていたではないか 』と語り合った。」

 (新約聖書・ルカによる福音書・24章30〜32節・新共同訳聖書)

信仰を持った最初のころは、
教会生活は、
何事も目新しく興味しんしんだったのです。
心は燃えていたに違いありません。
しかし、それも落ち着いてくると、
クリスチャンライフは、
一歩踏み込んだものに変わってきます。
人生とともに歩む、
信仰生活の始まりと言えるかもしれません。
しかし、そこでステップアップがなければ、
平平凡凡のクリスチャンになってしまうのかもしれません。

キリストの福音に接し、
福音に囚われ、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
キリストの十字架の死による贖いのわざ・・という福音に接し囚われ、
罪を知り、罪を赦され、神の裁きから救われる・・・・。

その方が、
”目が開かれイエスだと分かった”ときの感動は、おどろきは、
どこへ行ったのでしょうか。

キリスト教の教会は、どういう所なのでしょうか。
神が人間のところに来られて、
人間のものとなられたという、
神の人間にたいする究極的な選択と態度の決定という、
神の啓示によって、
教会はこの世界に生まれたのです。
私たちの信仰すら、
その出来事がなければ成立しません。
さらに、
キリスト教にとって最も重要な儀式としての、
教会に行なわれる洗礼や聖餐や・・・、
ただそのサクラメント・秘儀においてだけ、
私たちの信仰にたいしてだけ、
ご自身を私たちに知らしめられ明らかにされるのです。

キリスト教の教会の「主人」は、牧師でも役員でも信徒でもありません。
まぎれもなく教会の「主」はイエス・キリストなのです。

教会の礼拝における説教は、
私たちの主は、
イエス・キリストであることを、
常に、感謝と感動をともなって、
明らかにし再認識させられるものなのです。
またそうでなければなりません。


北白川 スー

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Wrote up on January 16, 2013.