教会には、色々な人がやって来る



長年クリスチャンをやっている私の、一般信徒としての感想です。

教会には、いろいろな人がやってきます。
しかし、それらすべての人がキリストへの信仰を求めてやってくるとは限りません。

教会は拒まず、さまざまに問題を抱えた人たちを受け入れるからです。

一般の人たちからクリスチャンを見れば、
信仰心のある人は、少しはややこしくはあっても、
汚れなく清らかで、
”なぜかひたむきな”方たちばかりだと思っておられるかもしれません。

教会に救いを求めてやってこられる人たちと言えば、
実際は、まったく逆で、
社会生活の中で込み入った事情を抱えこんでしまった人たちがやってきます。
それで、その抱えてしまった込み入ったものから解き離れたいと思って、
教会にやってきたものと思って、話しを聞けば、
えてして、そうでない場合もあります。

こだわりのようなものを持っておられます。
こだわり続けているものにこだわり続けておられるものですから、
なかなか本論に入ることができないのです。

過去にとらわれ、過去を引きづっておられます。
なにものかに強い固着・固執があるようですから、
なにものかにしっかりとくっついて離れないものですから、
キリストへの信仰や、
イエス・キリストの十字架の出来事という、
キリスト教の基本的なものに気持ちを向けさせようとすることを、
拒ばみ、避けられるのです。
聞く耳を持っていないと言っていいでしょう。

強いて言えば、キリストへの信仰など、どうでもいいのです。
イエス・キリストや信仰というものを持ち出すことすら、
自分にとって必要なことではないのですから。

聞くのではなくて聞いてほしいのです。
ですから会話の中で、
いつも、キリストへの信仰に行き着きたくないように、
いろいろと話しの方向を変えたり、
信仰とは関係のない話しを持ち出してこられます。

それで、ご自分の過去の話しを延々もすれば、
けっこう満足しておられます。

どうも話しの節々から察するところ、
自分の存在を認められたいと強く望んでおられるとでも言えばいいでしょうか。

自分の存在というものにたいする、
大きな不安感のようなものが元にあって、
他の人に、好ましく望まれた存在だと見られたいという・・・、
自己の存在証明とでも言うべきものを、
まわりからつねに得つづけていないと不安で居たたまれないようなのです。

自分が社会や職場や教会などの共同社会の中で、
人間関係において望まれた存在だと認められたとき、
はじめて自分が存在している気がするのでしょう。

過去に何か、社会か職場か、
人間関係に深い痛みを負ってこられたのでしょうか。
ご自身の働きが何ら評価されなかったという痛みを背負われているのでしょうか。

人との会話となれば、いつも、
誰にでも自分がどのようにしいたげられて来たか事細かく力説されます。

キリスト教信仰というものは、
神と人間との関係の上に成り立っています。
信仰の対象がイエス・キリストそのものなのです。

使徒パウロは、ローマ人への手紙で次のように語りました。

「人を救うのは神の義であり、
その救いはひとえに信仰を通して与えられるということが福音に現われています。
『正しい人は信仰によって生きるのである』と記されているとおりです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章17節・フランシスコ会訳聖書)

「見よ、心のまっすぐでない者は心高ぶる。
しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」

(旧約聖書・ハバクク書・2章4節・新改訳聖書)

あまりにも自分というものにこだわり続けるということは、
自分自身に信仰しているとでも言えます。
ですから、神への信仰によって生きることなどできません。

「いったいだれが、あなたを他の人よりもすぐれた者とみなすのですか。
あなたが持っているいるもので、いったい何をいただかなかったというのでしょうか。
いただいたのなら、なぜいただかなかったように誇るのですか。」

(新約聖書・コリント人への第1の手紙4章7節・フランシスコ会訳)

自分自身にこだわり続ければ、
いつまでたっても自分の心は解放されません。

キリストへの信仰というものは、自己を捨てさせるものなのです。
自分が背負ってしまった様々な問題を、
後ろへ置き去りにしていくことです。
いつまでも引きずっていたのでは解放はありません。

自分には責任がないと思えば、どれだけ楽なことでしょうか。
何事にも原因はあるのですから。
すべてのものごとは、
主なる神のゆるしなくして起きないのですから。

主なる神は、人の上に立ち、
ただ中にあって物事を行われているのです。
その証しが、イエス・キリストの十字架の出来事なのです。
イエス・キリストの十字架の出来事なくして、
私たち心の安らぎも、明日への希望もありません。

あなたの心をいやしてくださるのは、いったいだれなのでしょうか。
救いは、信仰を通して与えられるものとパウロは語りました。

信仰に始まり、信仰に進ませるのです。
それ以外に救いも解放もありません。


北白川 スー

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Wrote up on July 25, 2017.