8000もの教会が声をそろえて


 日本には8000ものプロテスタントの教会が、

 大都市に、地方都市に、市町村に、町々に、様々に建っています。

 その8000もの教会には、

 教派や教団の違いがあっても、

 共通した課題、共通した問題、共通した悩み・・・とでも言うものを持っています。

 それは、

 新しく教会に来た人たちが・・・・、

 一度、二度と教会に来られた人たちが、

 そののち、続けて教会に来られなくなるという・・・。

 また、

 イエス・キリストを信じ、洗礼を受けたものの、

 教会に自分の居場所を見出すことができないで、

 教会から去っていかれるという・・・・。

 さらに、

 よく耳にする信徒の苦情として、

 教会が、新しく信徒になった人を、

 それが信仰として当然なのだと、

 教会の奉仕や、さまざまな活動に、

 教会のシステムに組み込んでいくことへの疑問や戸惑い・・・、

 行き着くところ、教会の人間関係に疲れ果て、

 教会から去ることしか道は残されていないと・・・。

 何のために信仰を持ったのかという疑問だけ残る・・・・。

 ・・・・・・。

 日本基督教団やホーリネス・・・・。

 福音派やペンテコステ、ルーテルやバプテスト、

 その名をタイプしきれないほど、日本にあるさまざまな教会・・・、

 それらの教会の違いを超えた何かが・・・、

 何かにふさがれて、

 身動きができない状態に状況にある教会・・・・。

 何かが欠けている・・・。

 つまり、共通した、根本的な、

 教会を、信仰を支える基本に立っていないのではないだろうか。

 ・・・・・。

 8000ものプロテスタントの教会が、

 いっせいに声を大にして、

 大胆に、イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の内容と意味とを、

 説き、解き明かしを始めたなら、

 必ずや日本は変わることだろう。

 常にクリスチャン人口が1パーセントという壁を打ち砕くことになるに違いない。

 最初のころは、そのために、その時だけ、

 教会を去っていく人たちも出ることだろう。

 それは、教会のトビラを閉ざしていた要素であって、

 教会のトビラは大きく開かれることになる。

 大きく開かれたトビラから、

 多くの新たに救われた魂を迎え入れることになるに違いない。

 キリスト教信仰の基本は、

 何と言っても、十字架にあり、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのだから。

 聖書・バイブルは明確に語っている。


 「では、何と言われているのだろうか。

 『 御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』

 これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

 口でイエスは主であると公に言い表し、

 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、

 あなたは救われるからです。

 実に、人は心で信じて義とされ、

 口で公に言い表して救われるのです。

 聖書にも、『 主を信じる者は、だれも失望することがない 』と書いてあります。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・10章8〜11節・新共同訳)


 聖書は明確に語っています。

 信仰は聞くことから始まると、

 イエス・キリストの十字架の出来事に聞くことから始まるのだと。

 決して、教会経営でも世俗的な人間的なプログラムやシステムやカルチャーでもないのだと・・・・。


北白川 スー

関連記事・「教会風景」

表紙にもどります。

エッセイの部屋へもどります。


http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on 01 January 2011.