信仰を持ちたいと願いながらも、教義が受け入れられず


 教会の礼拝のメッセージでは、当然のこととして、

 すでに理解されているものとして、

 それがキリスト教の信仰の基本的なことであるにもかかわらず、

 くりかえし語られることなく先に進んでしまって・・・・。

 語られるメッセージに疑問をいだき、

 受け入れることに抵抗を感じている人の多さ・・・。

 礼拝にやって来ながらも苦悩している人たちの多さ・・・。

 キリスト教の教義を受け入れることに抵抗を覚えながらも、

 信仰を持ちたいと願っている人は少なからずおられるのです。

 イエス・キリストが2000年前に実在していて、

 人間の罪を贖う(あがなう)ために十字架にかけられ死刑となった出来事が信じられず。

 聖書・バイブルに書かれていることに疑問を持ち、

 また、受け入れられず・・・・。

 しかし、信仰は持ちたい・・・・。

 イエス・キリストは信じても、

 聖書・バイブルが語っているさまざまな出来事は信じられず、

 受け入れられない・・・・。

 でも、信仰は持ちたい・・・・。

 では、その信仰の中身は、

 いったい、どのような信仰なのでしょうか。

 いったい、教会に何を求めているのでしょうか。

 信仰というものに何を描いているのでしょうか。

 たとえ教会が、信徒たちが、

 その人になぐさめの言葉をかけたとしても、

 なぐさめの言葉を期待しながらも受け入れられず・・・・。

 それは、とてもつらい経験なのです。


 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、

 既に完全な者となっているわけでもありません。

 何とかして捕らえようと努めているのです。

 自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」

 (新約聖書・ピリピの信徒への手紙・3章12節・新共同訳聖書)


 信仰というものが、

 イエス・キリストとの関係を持つことであったり、

 感覚的に、また感情的に受け入れることであったり、

 その人への同情や共感が、

 そのような心情的なものが信仰ではありません。

 キリスト教の信仰とは、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事において、

 ”イエス・キリストの贖いのわざ ”が、

 私たち人間に、信仰によって、

 ひとりひとりに適用されることを受け入れることなのです。

 神によってあてはめられ、贖われた扱いを受けることなのです。

 その流れを、その仕組みを、その考えを、

 信仰によって受け入れることなのです。


 「あなたがたもまた、キリストにおいて、

 真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、

 そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」

 (新約聖書・エペソの信徒への手紙・1章13節・新共同訳聖書)

 「・・・・・あなたがたは、贖いの日のために、

 聖霊によって証印を押されているのです。」

 (新約聖書・エペソの信徒への手紙・4章30節・新改訳聖書)


 十字架の出来事を抜きにして、

 イエス・キリストとの関係を築くことが信仰ではありません。

 教会の人間関係や奉仕や活動が信仰ではありません。

 ネットで小論を書き続けていますと、

 多くのユーザからメールをいただきます。

 しかし、そのユーザーに問わなければなりません。

 教会でイエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とがくりかえし語られていますか・・・・と。

 神は、その言葉によって、

 私たち人間を捕らえることを忘れないでください。


 「初めに、ことばがあった。

 ことばは神とともにあった。

 ことばは神であった。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・1章1節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on 20 January 2011.