福音を外した教会



話題にも上がらず、置き去りにされ、忘れ去られたかのように、
依然として少数派に甘んじている日本のキリスト教です。

教会の中で、教会の閉鎖性が問題視されないところに問題があるのかもしれませんが・・・。
聖書的な、聖書・バイブルが言うところの、
福音の定義、教会の定義とは、
いったいどのようなことなのでしょうか。
意味や内容は正確に説明されているのでしょうか。

他人に自分の本心や姿が明らかにされることに消極的な人たちの必要から、
教会が閉鎖的であるのかもしれません。

しかし、イエスはそのような人たちのためだけに命を十字架にささげられたのではないのです。

キリスト教の教会が、社会や家庭などの共同社会の中で、
人間関係に疲れ果てた人たちのために開かれた場所だけであるなら、
心の弱くなっている人たちだけに開かれているのなら、
話し相手がまわりにいないため、寂しさから、話し相手を捜し求めて、
人恋しさのを満たすために、それを教会に期待しているのなら。
共同社会からはみだしてしまった人たちの精神的な支えの場を教会に求め見いだすのなら。
そしてそこに自分たちだけの小さなコミュニティーを形づくるのなら。

イエス・キリストは、その人たちだけのために、十字架の上でその命を落とされたのでしょうか。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、
わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」

(新約聖書・マタイによる福音書・11章28節・口語訳聖書)

このイエスの言葉は、限られた人たちだけに向かって語られたものなのでしょうか。

聖書が語るこの言葉は、
共同社会の中で、
人間関係に疲れ果ててしまった人たちにたいしてだけに向かって語られた言葉では決してないはずです。

人の置かれている状況がどうであれ、すべての人たちに向けて語られたはずです。
決して、甘い言葉ではなく、きびしい内容を含んでいるのです。

日本人の心理は、それが正しいものであっても、
厳しい言葉には自尊心が反発します。
自分の非を認めることなどできません。
受け入れることを拒んでしまうのです。

聖書・バイブルが語るのは、
神が人間のところに来られ、人間のものとなられたという出来事なのです。
神の、人間にたいする究極の選択と決断と態度決定を語っているのです。

ただ、私たち人間は、それに応えるか否かなのです。

イエス・キリストが示したのは、
疲れはて、重荷を負っている人とは、この世界に存在するすべての人間たちなのです。

イエスは、すべての人に、
負わなくてもよい重荷を、負わず、おろすようにとさとされたのです。
しかし私たちは気づいてはいません。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、
永遠の命を得るためである。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16節・口語訳聖書)

この日本では、古来から伝わる習いや、
仏教や神道に根ざした生活習慣や、
幾重にも入り組んだ風習になじんでいるのが私たちです。

それらは生活の知恵からきたものであって、
はっきりとした宗教観を持っているとは言いがたいのが、
私たちの日本なのかもしれません。
宗教というよりも、
人間の人生にあって共にある存在と言うべきでしょう。
それが日本人の信仰なのです。

聖書・バイブルは語ります。
「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、
また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。
・・わたしはある・・という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」

(旧約聖書・出エジプト記・3章14節・新共同訳聖書)

この旧約聖書の言葉は、私たち日本人にとっては、理解しがたいものかもしれません。
キリスト教は、決して人間に宗教的な所属を求め押し薦めているのではありません。
ただ言えるのは。
キリストの福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力なのです。

「わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新共同訳聖書)

キリストの教会は、決して小さなコミュニティーを作り出す場所ではありません。
私たち人間に、その言葉をもって語られる、
唯一なる神を礼拝するところなのです。
広く開かれた所なのです。

小さな居場所が救いではなく、
人間の本性的な病理から解放するのが福音であり、
人間の欲望を満足させるのが福音ではありません。


北白川 スー

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Wrote up on July 07, 2015.