奉仕することが信仰、それが福音・・・



だれしもクリスチャンになれば、
なり始めのころ、教会の奉仕活動に熱心になるものです。
今まで見たことも経験したこともない教会の様子です。
なにごとにも目新しく新鮮に映るものなのです。
婦人会や青年会や子供会や、
クリスマスやイースターなどのイベントや、
さまざまなボランティア活動に・・・。
でも、いつしか疲れ果て燃え尽きてしまいます。

クリスチャンになれば、
どうして教会の奉仕活動に熱心になるのでしょうか。

教会のさまざまな活動に加わることが、
自分の願いや欲求などが達成されたり、
自分の望む通りの道が開けてくると信じて・・・、
教会奉仕という行為行動に熱心になるのでしょうか・・・・。

イエスを信じているから、
イエスなら人間には持っていない力があって、
教会の奉仕を重ねることによって、
必ず自分の望む通りに事は運ぶはずだと・・・・。
自分たちの暮らしや健康や経済などが守られるのだと・・・・。
それなら、それはご利益信仰にほかありません。

「 平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。」

(新約聖書・マタイによる福音書・5章9節・新共同訳聖書)

これは聖書の、イエス・キリストの言葉です。
教会奉仕に汗することが、
世界の平和を作りだすことになるのでしょうか・・・。
そのように言われているのでしょうか。

キリスト教の奉仕の第一は、
それは、福音を宣べ伝えること、
つまり、イエス・キリストの十字架の出来事を伝え広げること、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事を、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を、
多くの人たちに伝えること・・・。

創造主なる、父なる神によって、
神のひとり子イエス・キリストの十字架による死と葬りと復活によって備えられた、
神の怒りの裁きからの救いについて・・・語り伝えることが。

「 それから、イエスは言われた。
全世界に行って、
すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

(新約聖書・マルコによる福音書・16章15節・新共同訳聖書)

どうもこのあたりが整理されていないようです。
奉仕することが信仰でもなく、
奉仕することが福音でもありません。

イエス・キリストの十字架の出来事を語り伝えることが奉仕であり、
そのイエスの十字架の出来事に聞くことが、
神にたいする奉仕であり信仰なのです。

「 実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)

この世界に平和を実現するのは、
平和を作りだす人こそ・・・・。
イエス・キリストその方ではありませんか。
私たちが行為行動に走るのではなく、
イエス・キリストが十字架に死なれたことこそが、
この世界に平和をもたらす”わざ ”ではないのですか・・・。

イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とを理解し、
受け入れ承認することこそ、
救いへの道筋なのです。

「 口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on 13 July, 2013.