救われた喜び
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どういうわけか、キリスト教の礼拝の空気は暗い。
どこか打ちひしがれて重苦しい・・・。
生き生きとした明るさが感じられない・・・・。
なぜなのだろうか。
”救われた喜び ”はどこへ行ったのだろうか。
クリスチャンに成るということは、
永遠の命が約束され、
明るい将来が約束されているのではないのですか、
希望に満ちた日々が待っているのではないのですか、
では、なぜ、依然として、暗く重苦しいのですか・・・。
キリストが言うところの、希望とか、明るい将来とか、
それらに疑問を持っているのですか。
現実的ではないと言うのですか。
それとも、今を壊すのが怖いのですか。
それが本音なのかもしれません。
クリスチャンになるということは、
罪の縄目から解き放たれたことを言うのではないのですか。
愚かで弱かった過去から解き放たれ、
キリストにある知的で活動的な人生へと転じたのではないのですか。
「 だれでもキリストにあるならば、
その人は新しく造られた者である。
古いものは過ぎ去った、
見よ、すべてが新しくなったのである。」
(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章17節・口語訳聖書)
それなのに、なぜ、今も、重苦しく暗いのですか・・・・。
キリストと出会っても、
自分の生き方にこだわり続けるなら、
それは、キリストに出会ったことにはなりません。
キリストを受け入れたことにはなりません。
自分の生き方が肯定されることが福音だと思い込めば思い込むほど、
ますます不安と苦しみは増してくるのです。
自分は、罪など犯してはいないと言い張るのですか。
キリストと、自分の生き方とは、また別物なのでしょうか。
今を壊されたくないのでしょうか。
では、なぜ、キリスト・イエスは、
十字架刑で死なれ、葬られて、
三日の後に死人のうちから復活・よみがえられたのでしょうか・・・。
福音、すなわちキリストの贖罪の出来事・・・、
神のひとり子イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)によって、
あなたの罪の代価は支払われたのではないのですか。
キリストの十字架の出来事を信じる前までの、
思いや、考えや、言葉や、行為や行動といったものは、
すべて、生まれながらに負っている罪深い性質(原罪・ゲンザイ)によって、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けてきたのです。
あなたに代わって、あなたの罪を贖ってくださったキリスト・・・。
キリスト・イエスの十字架の出来事を受け入れ信じることによって、
あなたの罪はつぐなわれたのです。
それまでの、思いや、考えや、言葉や、行為や行動といったものは、
罪に縛られてのことだったかもしれません。
以前の思いや言葉や行動は、もう必要ありません。
新しくされたのです。
作者としての神と、被造物・作品としての人間との関係において、
神にたいしての罪人だからこそ神の裁きがまっているわけで、
罪人としての生から、
神の怒りの裁きから救われ、
キリストと共に生きる道が開かれたのなら、
それまでの罪の下にあって、
罪深さに縛られた人生から、
キリスト・イエスに聞き従う人生へと転換したのではないのですか。
今までの生き方や考え方にこだわり続けるのなら、
罪人のままでいたいのなら、
それは、キリスト・イエスを受けいれたことにはなりません。
それとも、あなたが望んでいるのは、
今までの生き方が肯定されることだと・・・。
キリストにある生き方にたいして疑問でも抱いているのですか。
自分の生き方が肯定されることが福音なのだと思っていたからですか・・・。
新たに自分の前に明らかにされた、
キリストと共に歩む生というものが、
どういうものなのか分からないから不安だというのですか。
だから、受け入れることができない・・・・と。
では、何のための信仰なのでしょうか。
人間の現実の姿や現状を見るにつけ、
人間にとって、
神に栄光を返すことの大切さを知ったがためではないのですか。
「 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、
わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。」
(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・15章19節・口語訳聖書)
この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、
わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
信仰とは、現状に甘んじることに留まることではありません。
北白川 スー
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Wrote up on October 11, 2012.