越えられない1パーセントの壁
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日本の全人口にしめるクリスチャンの比率と言えば、
カトリックやプロテスタントや、
キリスト教によく似ていても非なる信仰まで含めても、
長年にわたって、人口比1%の壁を越えられない日本のキリスト教の現実があります。
日本の中には、
10%はクリスチャンだろうと思っている人もいれば、
多くの日本人には、1%という、その数字すら知られてはいないでしょう。
どうして日本のキリスト教は、
長年にわたって1%の壁を、
その壁を越えられないのでしょうか。
信徒の高齢化ということもありますが、
新たに洗礼を受けて、改宗してクリスチャンになる人は、
常にどの教会でも見受けます。
しかし、新しい信徒が増えても、
教会員が増え続けるわけではないのです。
教会の新しい人間関係になじめなかったり、
信仰生活の何らかのストレスからか、
信仰を失ったり、
教会との関係を続けることに疲れたりして、
教会から離れるクリスチャンも、少なからずおられます。
しかし、それらが、
1%の壁を越えられない主な原因ではありません。
キリスト教の信仰を持つということは、
キリスト教の教えや価値観に共鳴しなければ信仰を持つことはできないでしょう。
キリスト教の教えや考えや行動に、気持ちを同じくして、
自分も信仰ある者たちの中に加わってやってみようと思わなければ教会に足を踏み入れることはありません。
それとも、クリスチャンという信仰スタイルに信仰しているのでしょうか。
クリスチャンへのあこがれから信仰することになったのでしょうか。
キリスト教の信仰にとって最も大切なことがらは、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事であり、
罪 ”原罪 ”生まれながらに負っている罪深さということ、
さらに、その罪の赦し・・・ということ。
そして、もっとも大切なことは、
神との和解・・・であり、
神の裁きからの救い・・・ということにあります。
神の裁きから救われてこそ永遠の命へと移されるのですから。
イエス・キリストの十字架の出来事は、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
イエス・キリストが、だれひとりの例外もなく、
神の裁きから救うために、
私たちのために、その命を捧げて、
神との和解を完成された出来事です。
この出来事こそ、福音と言われるものであり、
キリスト教の信仰の根本であり、
根幹をなすものなのです。
キリスト教の信仰を成り立たせ、
また、形作る上でもっとも大切な働きをするものなのです。
このイエス・キリストの十字架の出来事に基づいた信仰でないとするならば、
その信仰は長続きするものではありません。
この理由が、1%の壁なのかもしれません。
「 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、
なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、
一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、
一人の正しい行為によって、
すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、
一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章17〜19節・新共同訳聖書)
聖書・バイブルは、もっとも大切なテーマとして、
すべての人間には ”原罪 ”生まれながらに負っている性質、
罪深さがあると語るのです。
その性質が、思いとなって、言葉となって、行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。
この罪の赦し、そしてその罪の結果からの救いというテーマが、
キリスト教の信仰の中心をなすものなのです。
北白川 スー
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Wrote up on August 27, 2012.