日本独自の教会



キリスト教は、キリスト教の信仰の原点となるもの、
原典としての聖書・バイブルは、
日常の一切の出来事の表面的なものにとらわれないで、
そのものの持つもっとも根源的な問題にまでさかのぼることのできるものとして、
世界標準・グローバルスタンダードなのです。

「わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新共同訳聖書)

世界標準であることは、
言葉の違いや肌の色の違い、生活習慣の違いなど問題にしない、
世界共通の信仰心がキリスト教の信仰なのです。

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
預言者イザヤの書に、
見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、
あなたの道を整えさせるであろう。」

(新約聖書・マルコによる福音書・1章1〜2節・口語訳聖書)

すべての人が対象の福音が、すなわち、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が、
言葉の壁や、国々の境を越えて、
すべての人々が共有することができるものであるなら、

日本という独自の性格を失うことなく、
キリストへの信仰を根付かせようとする試みがあったとしても、

ひとりの人がすべての人のために死んだという、
キリストの十字架の死による罪の赦しを語ることを教会に求めるものであるし、
罪を語らず、罪の赦しを語らないことを許すわけにはいかないし、
さらに、何からの救いなのかをも語らないわけにはいかないのです。

しかし、罪について語らず、罪の赦しについて語らず、
何にからの救いなのかも語らず、
イエス・キリストの十字架の死と葬りと復活を解き明かさないなら、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事を語らないなら、
人は、なぜに苦しみ続けているのかを解き明かさない教会となります。

私たちは常に、傷つき、苦しみ、怒り、悲しんでいます。
だから、教会に救いを求めて、なぐさめを求めて、
自分の思いや行為にたいしての肯定的な言葉を求めて、
教会にやってきます・・・。
人間的ななぐさめの言葉を求めて・・・。

しかし、忘れてはならないのは、
なぐさめ主は神であることを・・・。

罪深い私たちを、あわれまれたのは神ご自身です。

良かれと思ってのことなのに、
なぜに苦しまなければならないのか理解できないでいるあなた。
自分の思いや行為に欠けたものが隠されていることに気付いてはいませんか。

良かれと思っての行為は、
信仰心から出たものではないかもしれないのです。
なぜなら、
神のみが慰め主であることを忘れているからです。

「なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、
神の義に従わなかったからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章3節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on July 28, 2014.