教会の居場所



日本の多くの人たちが誤解していることとして。

現代社会から疎外された人に居場所を提供する所が、
キリスト教の教会ではありません。
なぜなら、福音のメッセージは、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事だからです。
創造主なる父なる神が、
すべての被造物にたいして啓示されたものだからです。
特定の人のために教会が用意されているのではありません。
だれひとりの例外もなく、
すべての人に向けて教会は建っているからです。
つまり、社会にたいしてリーダーシップを発揮するところがキリスト教だということです。

「わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新共同訳聖書)

また、教会に物足りなさを覚えているクリスチャンもいます。
神の啓示が説かれ解き明かされない教会では、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖罪の出来事が、
説かれ解き明かされない教会では、
キリスト教が自分たちの本当に必要としているものを与えてくれないと感じているからです。

現代人の大きな悩みは孤独です。
家庭であれ、学園であれ、企業であれ、地域社会であれ、
日本の社会の支配的な既成の制度の下で、
メンバーのひとりとして、そこで役割を担うことにたいする、
苦しみや、必要を覚えないところからやってます。

既成の制度によって満たされない心の渇きに応えるところが、
キリストの教会なら・・・。

たしかに、聖書・バイブルの価値観は、
既成の社会の価値観よりも、
はるかに高い次元の世界を描き出しています。

言いかえれば、キリスト教の教会は、
社会にたいして、地域社会にたいして、
経済や教育や医療や環境など、
ありとあらゆるライフスタイルに影響を、変革を与えるものだからです。

しかしながら現実の姿は、
日本の社会における教会の位地や居場所というものは、
聖書・バイブルが示すものから遠いものかもしれません。

教会が、現代社会から疎外された人に居場所を提供する所なら、
それでは何の解決にも福音にもならないのです。

問題の多い既成社会を、
また、人の欲を容認していることになるからです。

「あなたがたは地の塩である。
だが、塩に塩気がなくなれば、
その塩は何によって塩味が付けられよう。
もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、
人々に踏みつけられるだけである。」

(新約聖書・マタイによる福音書・5章13節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on March 20, 2014.