クリスチャンのつぶやき



日本のキリスト教の教会事情をあらわしているものとして、
それが、もっとも根本的なものであるにもかかわらず、
クリスチャンの口からもれ出でくることの多い・・・、
キリストを信じて洗礼を受けたものの・・・、
”十字架 ”のことはよく分からない・・・。
”イエス・キリスト”と”十字架 ”との結びつきがよく分からない・・・と。
罪についても、罪の赦しについてもよく分からない・・・。
信仰と、キリストと、十字架と、罪とは、互いに深い結びつきにあるものなのですが、
なぜかバラバラになっていて、互いに結びついていないようなのです。

日曜日におこなわれる教会の礼拝において語られる説教が、
すべての人間にたいして明らかにされた神の啓示として語られないのなら、
それは神の啓示ではなくなってしまいます。

イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を、
説教を聞く者が、その内容を、すでに理解しているものとして、
それを前提として、礼拝の説教が語られるなら・・・。
イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とを理解することなど難しいものなのです。

イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を、
自らの人生や信仰を、家族や仕事を支えることができるほどに、
納得し、かつ筋道をたてて理解していない者にとっては、
聞く者が、すでにイエス・キリストの十字架の意味を理解できていることを前提として、
礼拝におけるメッセージを聞かされる者にとっては、

その説教が、キリスト教の”教義 ”に重点を置いているように聞こえるのです。
教えに従って歩むことを試されているかのように聞こえるものなのです。
キリストによる贖い(あがない)という出来事を理解しないまま、
キリストによって、”囚われから解放された”ということを理解しないまま、
クリスチャンとしての心得や、
クリスチャンとしてのあり方や、
クリスチャンとしての知識や、
クリスチャンとして、どうあるべきかなどが語られるなら、

福音の内容であるところの、
神の裁きからの救いとか、罪の赦しとか、
囚われからの解き放ちや、自由といったものから、
遠いものとして聞こえはしないでしょうか。

キリスト教の教会において、どのような場合であっても、
まず、説かれ解き明かされるはずのものは、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。
今まで知らされず知ることのなかった出来事を伝えることなのです。
その出来事こそ、だれひとりの例外もなく、
すべての人間に向けて語られるものだからです。

教会の礼拝で語られる説教は、キリストの福音を、
決して、すでに理解されたものとして語られるものではありません。
神の啓示を、神の和解の出来事を、キリストの福音を、
イエス・キリストの十字架の出来事を、
毎回、毎回、聞く者に、新しいものとして、
くりかえしくりかえし語られなければならないものなのです。

聞く者が、またか!とでも思うなら、
それは、伝わっていない証拠なのですから。
聞くごとの感謝・・・・それが信仰の証しではないでしょうか。
そうあってこそ、
混沌としている実際の社会生活に影響を与えるものになるのです。

正直言って、私たち日本人とって、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事は、
理解しがたいものです。
一度聞いたぐらいでは理解できるものではありません。
贖罪という概念であっても、
死という概念であっても、
あがないという概念であっても、
死者からの復活であっても、
日本人の生活習慣に、
日本の文化や民俗にとってなじみのあるものではないからです。
いや、むしろ、まったく別物なのです。

神のひとり子キリスト・イエスは、
私たちの本性を自らの本性として、
私たちの罪を自らの罪として、
私たちの死を自らの死として、
その身に負ってくださったという・・・。

キリストは、私たちの身代わりとして、
私たちに下されるはずの神の怒りを、
神ご自身の怒りを、
ご自身の上に下されたという出来事・・・。
私たちの思いに、言葉に、行為となって、
私たちを苦しめ、私たちを混乱におとしめているもの・・・、
私たちの本性にたいして下されるはずの神の怒りの裁きからの救いを・・・。

私たちは、常に死んだ状態なのだという理解すらない者にとって、
神の怒りの裁きというものも、
死からの復活も理解できるはずがありません。
永遠の命をも理解できるものではありません。

それらを静かに見つめることをせず、
棚上げにしてしまっている者にとって、
だからこそ、
くりかえし、くりかえし、くりかえし・・・、
イエス・キリストの十字架の出来事を語ることによってこそ、
イエス・キリストの生と死と葬りと復活によって備えられた、
神の怒りの裁きからの救いということがらを語ることによってこそ、
神は今も生きて働いておられることを示すことができるのです。
神の怒りの裁きからの救いを、
そして永遠の命を、
私たちにもたらそうとされている神ご自身を・・・。

「わたしの兄弟たち、
あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、
だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、
罪人を迷いの道から連れ戻す人は、
その罪人の魂を死から救い出し、
多くの罪を覆うことになると、知るべきです。」

(新約聖書・ヤコブの手紙・5章19〜20節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on February 17, 2014.