教会は、かけ込み寺ではない



風邪を引いて高い熱が出てこようものなら医者のところへ行きます。
医師の言葉と、数日分の薬を処方してもらって安心を得ようとします。

しかし、風邪を引いたからといってキリスト教の教会には行きません。
高い熱が出たからといって教会には行きません。

聖書の物語では、
イエスの弟子たちは、イエスの名によって病の人をたちどころに直したと記述しています。
ということは、イエスの名に、
何か力のようなものが隠されているのかもしれません。

だからと言って、風を引いたら教会へ行ってくださいとは言いません。

さて、現代の日本では、教会にやって来る人は、
たいてい何らかの問題を、
のっぴきならない問題を抱えてやって来るようです。

自分の思うように事は運びません、
どうしていいのか分からず、明日への希望を失い、
身の持って行きようがなくなったからです。
自分自身を見失っていると言ってもいいかもしれません。

たしかにイエスは、苦労している者、
重荷を負っている者をご自身のもとに招かれます。

「疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、
わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛・くびき・は負いやすく、
わたしの荷は軽いからである。」

(新約聖書・マタイによる福音書・11章28〜30節・新共同訳聖書)

たまらず教会に飛び込んでくる人は、
人間関係に疲れ果て、
あまりにも多くの問題、
世間の言う、人並みに、
そうあらねばならないというものを手に入れることができず、
悩んだうえ教会にやって来たのかもしれません。

教会は、そのような人たちの抱えている問題から、
また、それらの問題から生じた責任とでもいうべきものを、
回避できるような答えを与えるところなのでしょうか。
ただ励ましの言葉を与えるところなのでしょうか。

教会にかけ込むということは、
俗世間から離れることを、
世間から縁が切れることを意味しているのでしょうか。
教会は神聖なる治外法権なところなのでしょうか。

または、さらに重い人間的な規則を、
手かせ足かせを負わせて世間に追いやり、
再び苛酷なたたかいをさせようとするのでしょうか。

教会にやってくる人たちの期待に応えようとするなら、
そうなるのかもしれません。

しかし、しかしです。
教会とは、本当にそのようなところなのでしょうか。

教会は、私たちの暮らしの知恵や、
戦いのスローガンが語られるところなのでしょうか。
もしそうだとしら、もっとも重要とされるもの、

イエス・キリストが私たちに語ろうとされたこと、
イエス・キリストが私たちに求められているものはどうなるのでしょうか。

教会にやってくる人にとって、
まったく初めて目にするもの耳にするものは、
いったいどうなるのでしょうか。

教会が声を大にして語る言葉は、
私たちが望んでいることではなく、
イエス・キリストが私たちにたいして望んでおられること、
何を私たちに望んでおられるかということであるはずなのです。

それは、イエス・キリストのご自身の言葉です。

現実を見てみましょう。
教会にやってくる人たちは、
イエス・キリストの言葉を聞くことを望みながらも、
その悲しみの表情は、なにか満たされないものを訴えています。
もしくは、悲しみを背負っていることすら気づいていないのかもしれません。

だから、イエス・キリストの救いにいたる道というものが、
どういうことなのか分からない不安を訴えているわけです。

私たちとイエス・キリストとの距離は、
かくも遠く離れているのが現実なのです。

あまりにも人間的な、
あまりにも社会的な事柄がその間に割り込んでいますから。

再び、声を大にして言わなければなりません。
社会的に広く認められた発言を繰り返すことや、
見過ごすことのできない悪しき習性を非難することは、
何の助けにもならないことを。

そうだと信じている自分の確信や、
問題意識の貧しさや狭さから抜け出して、
イエス・キリストにおいて、
私たちに与えられる豊かさ、
広さ、長さ、高さ、深さを探し求めなければならないことを。

私たちは、神の言葉である聖書に記述された、
イエス・キリストご自身の言葉と招きに立ち帰らなければならないことを。

「十字架のことばは、滅びにいたる至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、神の力です。」

(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙1章18節・新改訳聖書)

教会は、決して人間的な救いの建物でも装置でもありません。
教会は、神が人間のところに来られ、
人間のものとなられた出来事によってのみ、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事において、
罪ある私たちに代わって、ご自身の死をもって、
その罪を償ってくださったという。
つまり、神の恵みは、イエス・キリストの人格においてのみ拝せられるところなのです。

イエス・キリストを体験するということは、
その場に居合わせなければ、とうてい体験できない、
ありありと伝わってくる、
今もリアルに生きて働く、共におられるイエス・キリスト・・・。
イエス・キリストは、人間にとって救い主であるはずなのに、
イエス・キリストを礼拝することと、
牧師に人間的な悩みを相談することとは別物ではありません。
相談に来られた人の生き方にたいして、
肯定的な励ましの言葉を与えることが牧師の役目ではありません。
現代の日本の教会は、
なぜか二本立てなのです。


北白川 スー

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Wrote up on July 17, 2017.