目の前に便利な道具かあるとしても
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私たちはさまざまに便利な道具の恩恵に、
しごく当然のように、なんの疑いも持たずに、
ありがたいものとして受け入れています。
キリスト教の教会でさえ、
それらが、神の意志なのか、そうではないのか、
それが聖書的なものなのか、
そうではないものなのかを、
論じている暇もなく、
最新の機器にあふれています。
言いかえれば、
キリスト教の教会でさえ世俗的なのです。
罪の中を歩んでいると言っていいのです。
もしも、キリスト教の教会の説教が、
その場に流れている空気や、
物への態度や姿勢といったものが、
聖書的なものに基づいているならば、
本来はそうなのですが、
聖書の言葉に合ったものになっているはずなのです。
決してサンデークリスチャンではないものが生れてきたはずなのです。
たしかに世俗の中に教会は建っています。
しかし教会はその世俗を承認しているわけではないのです。
日本のクリスチャンは、
いまだに全人口の1パーセントと言われています。
もしも、キリスト教の教会が、
真に聖書的であったならば、
真に神の言葉に立った証言をしてきたならば、
また異なった姿を見せていたかもしれません。
神のひとり子キリスト・イエスが、
この世界に救い主として、
生まれ来られたということは、
この世界が、
神の目から見て堕落していることをあらわしているのです。
すべての人が罪の中をさ迷い歩いているからこそ、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ
(あがないのわざ)という出来事の意味が生まれてくるのです。
教会が主イエスのために、
神の意志・聖書の言葉に立った証言をするなら、
世俗社会にたいして、
闇ではなく光に向けた、
効果的で創造的なビジョンを明らかにすることができるでしょう。
なぜなら、
私たちクリスチャンは、キリスト者として、
イエスのみが救い主であることを告白・言い表すからです。
しかし、すべては、最終的に神の手にゆだねられていることを忘れてはならない。
「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)
北白川 スー
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on 17 June, 2013.