人々が教会に期待するものは何・・その裏表


 キリスト教の教会とは何・・・と問われれば、

 一言で言って、神の啓示が語られるところ、

 と答えることが正解です。

 だから人は、その啓示を聞き、またよく味わい、

 それを恵みとして受け取る・・・。

 そして、受け入れ、また従う・・・・。

 だから、この世界を造られた神をおそれうやまわなければならなくなる・・。

 神の啓示とは、

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の内容と意味なのです。

 神が人として人間のところに来られて、

 人間のものとなられたことによって引き起こされた、

 神の人間にたいする、

 この世界を造られた神が、その作品であるところの、

 被造物としての人間にたいするところの、

 究極の選択と決断と態度の決定によって生じたことなのです。

 ですから、キリスト教の信仰とは、


 「 実に、信仰は聞くことにより、

 しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)


 であって、教会とは、決して、

 人の意思によって管理し運営されるところの、

 私たちの共通した感情などによって、

 人を集める施設ではないのです。

 しかし、多くの人は、このあたりを誤解しているようです。

 言い方を変えれば、

 教会は、神の意思によって立っているのか、

 それとも、人間の意思の上に立っているかの違いと言えるでしょうか。

 では、人が教会に期待しているものは何でしょうか。

 人は、何を教会に期待して、

 また、何を求めて教会のトビラをノックするのでしょうか。

 多くの場合、神の啓示を聞いたことのない人たちが・・・と言えるかもしれません。

 それは、人が人を評価することを求めて。

 評価されることによって安心を得る。

 しかし、それは決して福音ではないことを明確に言っておかなければなりません。

 自分のこれまでの歩みが評価されなかったことへの焦りと落胆。

 自分の生き方にたいして評価されたい、認めてほしい。

 肯定的な励ましと言葉や態度・扱いが欲しい・・・。

 自分は、のけ者にされていると思い、

 仲間はずれにされていると思い・・・。

 この現代社会・・・・・情報過多な激動社会の中で、

 主体性を失い、

 人間関係や、環境や、

 すべての物事に違和感や挫折感を持ち、

 他人との親密さも愛も喜びも失い孤独な存在になる。

 現代社会の病理の中で傷ついてしまった・・・・自分・・。

 この疲れ果てた自分を助けて欲しい・・・・・。

 教会は、そのような傷ついた人たち、

 また疲れ果てた人たちをケアはします。

 イエス・キリストが、そのようにされたように。

 しかし、中には、教会の対応が、自分の求めていたものからはるかに遠く、

 それが得られず、不満から、教会から去っていかれる方もおられます。

 多くの場合・・・、

 教会との最初の出会いは新鮮なものです。

 教会生活は、実に目新しいものです・・・・。

 だからか、すぐに教会生活に熱心になります。

 日曜日に熱心に神に仕えるなら、

 祝福されると思い込んでしまう。

 神に熱心になればなるほど教会のことばかり考え、

 日曜日のことばかり考えるようになる・・・・。

 色々と問題を抱えていた、家庭や家族や会社や人間関係のことを、

 ひととき忘れさせてくれる教会生活・・・・。

 でも、長続きしません。

 今度は、教会生活にも疲れてしまうのです。

 やはり教会生活も人間関係だからです。

 さらには、今まで問題の多かった家庭や家族や会社や人間関係のことは何一つとして解決しなかった・・・・。

 まあ極端な例ですが・・・・。

 人が人から評価を得られないつらさは人知れず大きいものがあります。

 役にたっているという評価ほど、その人を励まし力づけるものは他にないからです。

 しかし、それは決して魂の安らぎを得るものではありません。

 評価されれば、それに比例して、さらなる精神や力を打ち込むことを求められるものになるからです。

 ですから、キリスト教の教会がその役目を担うとすれば、

 それは、神の啓示から遠く離れたものになります。

 キリストの教会において、

 キリストの福音が大胆に語られ、

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事の内容と意味とが大胆に語られるならば、

 それによって人々が引き寄せられるならば、

 それが本来の教会の在り方であり、

 本当の姿なのです。

 決して、ひとつの施設に変わってしまった神の啓示ではないのです。


 「 あなたがたは、キリストと共に死んで、

 世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、

 なぜ、まだ世に属しているかのように生き、

 『 手をつけるな。味わうな。触れるな 』

 などという戒律に縛られているのですか。

 これらはみな、使えば無くなってしまうもの、

 人の規則や教えによるものです。

 これらは、独り善がりの礼拝、

 偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、

 知恵のあることのように見えますが、

 実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。」

 (新約聖書・コロサイの信徒への手紙・2章20〜23節・新共同訳聖書)


 神の啓示とは、イエス・キリストが十字架で死んだ出来事です。

 日本人にとって、人が死ぬことが福音だなんて、

 とても信じられない、考えられないことなのです。

 でも、死ななければならない・・・・??。

 人が死ぬことが福音だなんて、

 だからこそ、私たちは、もう死ななくてもいい・・・??。

 イエス・キリストの十字架の出来事は死から始まったのです。

 だから、その死を受け入れるなら、

 もう死ななくてもいい・・・。

 代わりに死んでくださったのだから・・・・。

 私たちの罪をその身に負い、

 私たちに代わって罪人として処刑された・・・・。

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事が福音だなんて・・・。

 私は罪など犯していないと言うならば、

 その人は自分を偽っていることになります。


 「 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」

 (新約聖書・ヨハネの第1の手紙・1章8節・新共同訳聖書)


 信仰とは、聞くことから始まることを、

 心に深くとめて忘れないようにしたいものです。


北白川 スー

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Wrote up on 26 April 2011.