律法の外に、律法とは別に



福音が明らかにされない所では律法が力を持つものです。

日本のクリスチャンほど、
”どのように信仰すればいいのか ”苦しんでいるようです。
この日本の社会の中で、
複雑な人間関係の中で、
昔からの因習を引きずっている共同社会の中で、
さらには、教会の中ですら、
どのように信仰生活を送っていけばいいのか・・。
問題を抱え、悩み、苦しみ、壁に阻まれ、つまずき・・・。

クリスチャンとは、キリストの福音によって、
イエス・キリストの十字架による贖罪という出来事によって、
さまざまな縛りから、縄目から、
解き放たれたのではないのでしょうか。
それなのに、
あれはいけない、これはダメ・・・等々。

聖書・バイブルは明確に語っています。

律法の外に、律法とは別に、律法とは関係なく、
福音が明らかにされていると。

「なぜなら、律法を実行することによっては、
だれ一人神の前で義とされないからです。
律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
ところが今や、律法とは関係なく、
しかも律法と預言者によって立証されて、
神の義が示されました。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章20〜21節・新共同訳聖書)

クリスチャンは、教会の中であっても、
さまざまなドグマ・宗教上の教義に縛られていると言っていい。
しかし宗教上の教義であっても、それは律法なのです。

教会においてイエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事が、
くりかえし説かれ解き明かされているなら、
つまり福音が解き明かされているなら、
私たちは、キリストによって自由を得ているのです。

「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、
神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・8章21節・新改訳聖書)

実社会であっても、
教会生活であっも、
信仰生活であっても、

福音が明らかにされない所では、
律法が力を持つものなのです。

「しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。
今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、
この覆いは除かれずに掛かったままなのです。
それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。
このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、
いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。
しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。
ここでいう主とは、“ 霊 ”のことですが、
主の霊のおられるところに自由があります。
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、
鏡のように主の栄光を映し出しながら、
栄光から栄光へと、
主と同じ姿に造りかえられていきます。
これは主の霊の働きによることです。」

(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・3章14〜18節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on October 22, 2013.