赤飯のなぞ
秋は小豆の収穫期。小豆は1サヤごとに熟す時期が異なるため、1サヤずつ手で摘まな ければなりません。摘んだばかりの小豆はまだ薄いエンジ色です。天日干しにして赤み を深めていきます。この季節あちこちの農家で見られる風景です。

小豆ともち米を混ぜて蒸し上げるお赤飯。日本人の祝い事に欠かせないもので、お芽出 度い席にはつきものです。小豆あってのお赤飯。創業明治八年、鳴海餅本店では忙しい 時で1日1トンものお赤飯を蒸し上げます。その時ばかりは小豆もフル回転です。

小豆の煮汁はもち米に色をつけるために利用します。色つけしたもち米を冷水に浸して 1時間。もち米と小豆を混ぜ合わせ、蒸すこと20分。お赤飯の出来上がりです。

味・色・香り、小豆の力はお赤飯のすべてにいきわたります。

しかしこのお赤飯、昔は「葬式に赤飯」だったのです。江戸時代の文献によると「赤飯 を凶事に用いる事、民間の習わし」とあります。

文化庁のまとめた全国調査でも葬式にお赤飯を用いるところは、東北地方から南西諸島 に点在し昔から広範囲にわたって凶事にお赤飯が使われていたことを示しています。

これは小豆の赤い色に関係すると言われ、古くから日本人は赤い色に特別な気持ちを持 っていたようです。赤い色が魔力を秘めていると解釈され、赤い力で不幸の厄払いをし てきたのです。

ではなぜ、凶事に使われていたお赤飯が祝い事に使われるようになったのか?

江戸時代、疫病が大流行した時期がありました。「疱瘡(ほうそう)」今で言う天然痘 で多くの人々が犠牲になりました。あまりにすさまじい病に人々は疱瘡の悪い神様「疱 瘡神」がいて疫病をつれてくるのだと考えました。そこで疱瘡神を喜ばせ病気を治そう と考えました。疱瘡神は赤い色を喜ぶとされ、病気にかかった子供に見せる絵本は赤一 色でした。絵本だけでなく部屋じゅうのものに赤い色を使っている絵図も残されていま す。そこでこの頃は、赤いということでお赤飯が食べられました。そして赤い色のお蔭 で病気が治った時厄払いとしてもう一度お赤飯を食べたのです。疱瘡にかかった江戸庶 民にとってお赤飯はなくてはならないものでした。やがて江戸末期になると疱瘡を予防 することができる様になり、庶民の間で病気を治すために赤いものを食べるという風習 の意識が薄れていきました。ただその中で病気が治った時の祝としてお赤飯を食べるだ けの風習が残り今に至っているのではないかと考えられています。

医学の進歩により病気を治すためのものから治った後の厄払いのものとなったのです。 毒消しの効果のある「南天」は「難を転ずる」として厄払いとして親しまれたお赤飯の 面影を残しています。「芽出度い時には赤い色のお赤飯」というのは元々、困った時に 「災い転じて福となす」と難を転ずる願いを込めた江戸時代の人々の思いが込められて いたものだと言えるでしょう。

お赤飯の赤い色を幸福の赤として定着させたのは、苦境に際しても何とか乗り越えるよ うとした我々祖先の前向きな生き方だったのです。

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