亀岡市内ファミリーマート竹茂亀岡八の坪店と馬堀店にはタケモ醤油が置いてございます。良質で熟成されたタケモ醤油をコンビニをご利用の地域社会のお客様にも!と考えて写真のように常時ボリューム展開しております。
  
  日曜にドライブがてら立ち寄ってお買い上げになるお客様も。他に平和堂アルプラザ亀岡店、ガレリア道の駅アトリオとそのお向かいのマルショウディスカウント酒店、サンフェスタディスカウント酒店下矢田店、河原町(亀岡市内)の黒田食料品店、吉川町(亀岡市内)の丸山酒店、船井郡八木町屋賀の木村力商店(敬称略)にもおいてます。
ファミリーマートタケモ亀岡八の坪店の前に大イチョウがあります。明智光秀が開いた旧亀山城の外堀にあたるところです。隣には楽々荘という宴会場があります。山陰線を京都市から延伸させてきた資産家田中源太郎が住んだ邸がそのまま使われています。文化財として大切にされており、夏には庭園でビアホールが行われます。
 代代の藩主が見たであろう偉大なイチョウの木は秋になると大量の落ち葉を降らします。店長は「落ち葉の掃除はたいへんだけど、城下町風情たっぷりのイチョウの木は私の心の一風景です」と誇らしげに言う。
 どんなときでもめげない自然の力を私達に分けてくれる銘木がここにあります。
 亀岡の中心街である亀山城下町の外堀のはずれにタケモがオーナーのファミリーマートタケモ亀岡八の坪店があります。もう開店して14年目になります。城下町の閑静な雰囲気のなか、当店はひときわはれがましく人と車が行き交います。JR亀岡駅(山陰本線)が近く、平日は電車でのお客様がよく御来店です。国道9号線に出て行くまたは入ってくるお客様も多い。
  休日には家族連れのお客さんが2リットルのペットボトルやおにぎりなどを買って行かれるようです。近所の町内の行事やスポーツのかたの需要にも千客万来お役に立てると実感しています。

 

保津橋を渡る回送船。嵐山まで行った船をまた乗船場に運びます。昔は両岸から船頭さんがひもで引いて乗船場まで帰っていました。昭和30年代の後半、トラックが船を運んで帰ってくるようになりました。
  狭くて古い保津橋はこのトラックが渡るといっぱいになります。対向車はこの船を積んだトラックが渡り終えるまでしばらく待機しました。
梅雨の季節も京都は独特の風情で私たちを魅了します。。  若い学生さんから老人会の御一行までみんなに喜ばれる町です。その中でもタケモからちょっと行ったところの保津橋から保津川下りに乗る。保津峡と言う名所に至る。激しい谷川に岩は深く削られ、V字谷の景観になっている。
  ナンと言っても蒸し暑いときの保津峡は下界とはうってかわってさわやかだ、目が覚める。朝は晴れやかで蛙岩や四季の花がごあいさつ。京都のお天気はほんとに気まぐれ。急流は狭い岩の勢いでますます激しい。保津川の船頭さんでなければ渡れない渓谷だ。もうそろそろ生命が活き活きとする(めんつゆもうまい)夏です。おたのしみください。
丹波の絵の名人円山応挙
  皆さんは学校の教科書で、日本画を見たことがあるでしょう。華やかな花や、地味で優しく描いた鳥の絵など。
 その中で仙人と動物を書かせたら一番という画家がいた。江戸時代中ごろ丹波(今の亀岡市曽我部)に生まれた円山応挙だ。農家に生まれた彼だが、絵ばかり描いていて米を作ろうとしない。あきらめた親父は近くの金剛寺に応挙をあずけ、僧侶にしようとする。しかしそこでも絵ばかり描いていたので和尚をあきれさせた。
 京都に奉公に出されてその先の白粉屋で目にとまり、石田幽汀に入門する。石田は狩野探幽のすじを引く御所御用達の絵師だった。
  三十三歳のとき、大津の円満院というちょっとエエお寺で注文があり、「七難七福図巻」という絵を描いた。約九年間そこを中心に活動する。植物のスケッチ、中国の絵、そして伝統的な日本画、それらの知識をもとにしているので応挙の絵はレンズの向こうを見るように正確に描かれていたという。また、少年時代学んだ禅のありのままにという発想もいかされている。
  四十歳を過ぎると三井や鴻池のリッチな人達に気に入られ、邸の各所に掛け軸や襖絵などを描いた。応挙は現地に行って絵を描いていたのではなく多くの弟子を抱えた工房で仕事した。
  四条烏丸交差点から東に四条通りを行くとビル影に応挙の住居跡の石碑がある。私もよくその前を通るのだが。四十代の頃、そこの家が火事になったとき、応挙は久々に亀岡(当時丹波国北桑田郡)に帰り、子供のころ一度世話になった金剛寺に身を寄せたという。そのときに描いた金剛寺の襖絵は仙人画の傑作として今も残る。仙人が岩場に遊ぶ「群仙図」。川と山をえがいた「山水図」。荒くれる大波と鶴を描いた「波濤図」。仙人の目はみな金剛寺の本尊に向かっているという。御本尊の視線の先には美しい山水図がくるように工夫してある。寛政七年(1795)63歳で亡くなる直前まで絵筆を離さず、その精神力には門人も驚くばかりであったという。
  金剛寺の襖絵は年に一回11月3日に公開される。西国三十三ヵ所穴太寺に近いのでセットでご覧になるのもよろしかろう。


梅田神社
 川東地域の保津、千歳をすぎると旭町にくる。亀岡のいちばん北となる。見渡す限り広々とした水田地帯、目がさめるような緑色が心地よい。酪農家も何軒か見うけられる。取れたての野菜が農協前の無人販売所で売られている。さすがにどれも新鮮。肥沃なこの土地の大根やなすびは実際においしいのです。
  もっとも北の端、船井郡八木町との境目には梅田神社がある。50坪くらいの狭い境内。祭神に天児屋相命を祭る。本殿は一間社流造、桧皮(ひわだ)葺きで国の重要文化財。建武五年(1338)の執権北条高時が家臣に命じ、社殿を造営。130年後、1459年(長禄3)に再建。天正の頃明智光秀が焼き打ちしようとしたがなんとか免れた。本殿は文化財とかいうわりには小さい。幅4メートル、高さ三メートルくらいのもので、祭壇や屋根の装飾は小人の家のように細かい。宮大工が造ったったというより仏壇職人が造ったような感じのする大きさだ。
  写真のムロの木は大木としては岩手県とここの2箇所しかわが国に残っていない貴重な木。くねくねうねっているのが印象的。人間で言えば変わり者でしょう。
  祠の横の石塔は「いぼ取り」の神様で信仰するといぼが不思議ととれるという。
保津川
  保津川を正式に呼ぶ人はとても少ない。上流の細い川のうちは上桂川、亀岡の北部では大井川。そして千歳川、保津までくると保津川になる。嵐山をこえると桂川となる。正式には大堰(おおい)川というが、国土交通省では桂川で各流域を統一している。こんなに呼び名がころころ変わる川はそうはない。川の名は流域の人々の愛着がしみついている。
   保津川は地域の生活用水であるとともに、物資を運ぶ交通だった。京の都に華々しく都市空間ができる。大坂にも大阪城や石山本願寺ができた。それらの材木が多くはこの丹波の山で切り出され、保津川を通って都に至った。木が山でおもむろに倒れ、自分で流れていくわけではない。京北の杣人が切り倒し、川に筏を組んで、水量が少ないと川から上げては木舟に載せ苦労して運んだ。
  保津峡に入ると狭くなる。V字谷になっている。美しい景観は今日の観光客を喜ばせるが、昔の筏師には辛かった。流れがにわかに強くなり、何より危険で死者も出た。そこまでいかなくても筏の材木一本でも流してしまうと損をした。保津峡を越えるにはより強い筏に造りかえる必要があった。その作業を引き受けたのが筏問屋といわれる人で、山方(木を切り出して運んできた人)に応対していた。やはり筏師と同じ山本や保津に住んでいた。トラブルが絶えない。運んできた人は、同じ下り賃ならばせいぜい大きく造った方がいいと思う。しかし筏問屋は長くすると岩にぶつかりやすくなり、事故のもとになったり、材木の損失になったりする。しかも、大きくした分便数が減るので筏師もそんをする。そんなことで長く組むことをしぶった。夏の水量が少ない日などとても危険だ。運賃がかかることでは困る、山方が自分で桂の材木問屋まで直接行こうとした人もいたが危険で長続きしない。  
   保津と山本の筏師はそんな生産者と問屋との争いとは無関係ではなく、争いが頑固な「船頭根性」を鍛えていたといってよい。筏師や船頭は「どんな激流も越える。俺達にしかこんな筏は運べまい。」と豪語した。筏師は何百年も保津峡の激流を仕事場とした。
   豪商であった角倉了以はなんと保津川の水路開削工事を5ヶ月でやってしまった。火薬を輸入して自らも測量知識を生かし進めた。岩を砕くにはおおきな鉄の玉を巻上げ機で持ち上げ、ドスンと落とした。またその割れ目に火薬をぶち込んだりもした。
こんな開削工事が江戸時代だけでも6回行われた。川を広げるだけではない。広くて底が浅いところには岩を置いて流れを急にし、水の勢いで川底を削った。そのせいか、今でも「かえる岩」とかいわれるちよっと不自然な岩がごろごろしている。
 角倉は保津の通過点に「角倉役所」を置いて川の経営権をにぎっていた。その通行料でも儲けた。こんな大工事をしてもおおきな筏を通す事は危険だった。筏問屋と運んできた人との利益の争いが絶えないほど保津峡は人々にとっては難関だった。
  筏は「ヒル」「ネソ」などと呼ぶホチキスのような金具や木のつるなどで固定して作った。前は岩にぶつかりやすいため小さくて安い木を組み、後部は、大きくて高価な材木を組んだ。長さ25間(約45メートル)幅1間2尺(2.4メートル)。12枚つなげて蛇のように下ったが筏師は3人しか乗らなかった。
   
  


     竹ざお…3メートルあまりのさおで岩場に突き刺して船を進める。突き刺す位置が決まっているので岩の決まった部分に穴があいている。
  舵・・・長さ5.6メートル。先っぽがT字型になっていてそこを握ってこいだ。
  舵・・・船を前進させる役目と、方向を決める舵取りの役目がある。かっては桜材、今は外材を使う。先端の羽の部分がが磨り減ってもとりかえてふたたび使う。しゅろの木の皮で作った縄を引っ掛けて船体に固定し、独特の「ギーコギーコ」という音を出す。
園部
 亀岡から少し北へ行くと園部町がある。社長もこのぐらいの距離なら自転車で配達したと言っておりましたが。車でいっても距離は京都市内よりも遠いのです。商店街が途切れるあたりに古風な大きい門が現れる。園部城の跡なのです。内部にはこんもりと落ち着いた広場がある。門の中でむしろを敷いて飲んだり騒いだりしようか?いえいえいけません。現在は高校になっているのです。ゆるやかな坂と左隣のやぐらが門を堅実な雰囲気にしている。
  元禄から幕末まで城主だった小出氏はもとは但馬出石の領主だった。一時岸和田に移ったりしたが、出石にもどってきた。その間留守番していた弟の小出吉親が園部へ移って園部藩が本格スタートする。出石藩の小出氏が断絶しても園部小出氏は幕末まで2万6千石の小藩として穏やかに続いた。

天守閣が出現!実はこれは情報センター図書館として近年建てられたものです。隣の園部博物館は一時間で園部の歴史がわかるお勧めみどころ。
 

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